琉球王朝の専売品だった生薬「ウコン」

ところで、インドを原産地とするウコンが日本にまで伝わってくる経緯についてははっきりとしたことはわかっていません。一般にいわれているのは、唐の時代の初期、つまり7世紀頃に中国の広東方面に伝わり、薬用として、さらには染料や調味料として利用されたといいます。

日本では平安時代の中期以降にはすでに知られていたようですが、日本においてこのウコンの存在が広く知れわたり、利用されるようになったのは、当時、南方諸国と盛んに交易を行っていた沖縄の琉球王国が当時、朝貢関係を結んでい大陸の中国からウコンの輸入を始めたことにあるといわれています。

大河ドラマ「琉球の風」にも登場したウコン

大河ドラマ「琉球の風」 | NHKドラマ
https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=taiga31

その琉球を経て日本に伝わったウコンのことは、室町時代に発行され宝易のなかにも記録されています。ところで、その当時の琉球王国の様子は、NHKの大河ドラマ「琉球の風」でも描かれましたが、実は、このドラマの第1回目にウコンが映し出されていたことに気づかれた方は少ないのではないでしょうか。

それは琉球の船が薩摩に向かって航海している場面を映し出していました。確かによく見ますと、船に乗っている男がウコンの根茎を手にもっていました。その光景は琉球の歴史をよく知っていればうなずけます。

というのは、当時の琉球王国はウコンを砂糖とともに外交や経済の重要な品目として扱っていたからです。琉球王国は、1597年の「慶長の役」以来、薩摩藩のたくみな政略によってその影響下に組み込まれつつありました。そのことは、王国の財政をも圧迫するようになり、やりくりは厳しくなる一方でした。そして、ついには薩摩らの借金の返済にも困るほどになってしまいました。

あまりに台所事情が悪くなった府は家臣たちを集めてどうしたらよいかと打開策を問うほどでした。そこで出てきた解決策が、二人の家臣によって提案された方法で、砂糖の他にウコンを専売品にするというものでした。

確かに、当時すでにウコンは、すぐれた薬効をもち、食用、染料などとして品広い利用価値をもつものとして大坂方面にまで知れわたっていました。すでに琉球の農民と薩摩の船員との間では直接の取引が行われていましたから、それを王府がすべて取り仕切って、ウコンを専売品にして薩摩に売れば、かなりの利が得られると考えたのでしょう。

実際には琉球における買値の6倍近い値段で薩摩では売れたそうですから、お金に換えられる作物の少なかった琉球にとって利益の大きいウコンの売買はかなり魅力的なものだったに違いありません。

いずれにしても二人の家臣の提案がきっかけとなり、1646にはウコンの専売が具体的に開始されたのです。その結果、一般人による自由な栽培や販売は一切禁じられ、琉球王府が一手に買い上げて薩摩に送り売ることになりました。

王府のウコンに対する管理はかなり徹底していて、植え付けや収穫の際には、ひとりひとりに根茎の数を数えて渡し、仕事が終わる際にも監視人がいて根茎を隠して持ち出す者がいないか服装検査まで行うほどだったといいます。
それでも、なかにはこうした厳しい監視の目を盗んで夜の暗がりに畑からウコンを盗み出し、こつそりとウコンを育てて薬草として利用した庶民もいたという話さえ伝わっています。それぐらい、当時のウコンは貴重品として扱われていたのです。

大坂地方で驚くほどの高値で売買

琉球から薩摩に運び込まれたウコンの販売は、琉球館という琉球王府の出張所が現地で直接担当していました。そこには琉球側から免許を産けた御用商人だけが出入りを許され、彼らが入札してウコンを買い上げ、大坂地方に持って行って売りさばきました。

大阪地方での販売価格は、薩摩での買値の10倍以上ともいわれるほど高く売りさばかれていたのです。
一説によると33倍近い売り値がついたともいわれるくらいです。琉球王府にとってこれほどの収益率が見込めるウコン販売は、やはり相当魅力的なものだったに違いありません。商魂たくましい薩摩の商人たちもまた、ウコンの利権をめぐって手をかえ品をかえて競い合ったといいます。

薩摩藩も財政立て直しのために専売化

その後もウコンの需要はどんどん大きくなっていきました。それにともない、沖縄本島だけではなく、他の島々でも栽培が行われたようですが、それ以上のスピードで需要が増大したために、琉球におけるウコンの耕作面積は、さとうきびとともに拡大する一方でした。

その勢いは、ついには食用作物の栽培芸かすほどまでになり、さすがに王府も無視できなくなって、ウコンやさとうきびの耕作面積品限しなければならなくなるほどだったといわれます。

このように琉球王府が窮迫する財政立て直しのためにたいへん大きな需要のあったウコンを専売品にしたのと同じように、それからほぼ200年を経た天保時代に入ると、今度は薩摩藩がやはり藩の財政立て直しの一環としてウコンの専売に乗り出しています。

すると、それまでは琉球館から御用商人たちが買い上げていたのに、薩摩藩が専売を始めた後は、そうした商人たちを追い出して直接買い上げるようになりました。

いずれにしても、これほどまでにウコンが琉球王府や薩摩藩の大きな財源となり待たのは、江戸時代までの日本社会において大きな需要があったからに他なりません。つまり、薬草として、さらには染料や食用として、かなりの量のウコンが取引されていたのだと思います。それにもかかわらず、明治以降になると、ウコンの存在は急激に忘れ去られていきました。そして、今日に至って、科学的な研究によって数々の驚くべき薬効が解明されるまで、ウコンが人々の目を引くことはほとんどありませんでした。

その理由については、このように考えられていきました。明治時代に入ってからの日本の医学は完全に西洋医学中心になってしまいました。そのために江戸時代までは人々の健康管理や病気の治療に大きな役割を担ってい妄洋医学は非科学的なものとして隅に追いやられました。

その結果、生薬による治療も軽視され、ウコンのような素晴らしい薬草の存在さえ人々の意識から消え去ってしまったのだと思います。
しかも、ウコンは沖縄以外の地方では栽培しにくいこともあって特に影が薄くなってしまったのかもしれません。

ウコンが、1世紀以上の空白を超えて再び、現代人の成人病を予防する奇跡の薬草として再登場してきたのは、とても深い意義があります。

といのは、明泊以降、あまりに西洋医学に偏ってしまった現代医学が医薬品による副作用に見られるような大きな課題にぶつかっているからです。

これを乗り越えて行くには東洋医学を積極的に取り込んでいく必要あり、薬としては生薬の価値がもっともっと見直されるべきときを迎えています。
その意味において、神秘の生薬としての長い歴史をもつウコンがこうして現代によみがえったことに限りない希望を感じています。