アル中

ほんの少し酔ったあとの落とし穴

酒を飲むと酔うのは当然です。きわめて当然のなりゆきです。酒を飲むのも、この酔いあってのことといえるでしょう。
まず、この「酔う」という現象から考えてみましょう。

「酒に酔う」連想ゲームよろしく酔いよいことばをかさねていけば、酒はこころをま酔わせる。迫真の演技に酔う。人(込み) に酔う。朋友との語らいに酔う、と際限もなくつづくが、その場面や状態で酔い心地はよくもわるくもなります。

この「酔う″」というこころのありようには、どこかめまいと似ているところがあります。酒にからめとられて目のまわる気分。
いうならば天にも昇るここちから一転して悪酔いや二日酔いの地獄におちいるターン・オーバー・ポイント、じつに一瞬の変化であることは、飲兵衛を自負されるかたがたはほとんど経験ずみのことと思われます。

かし、このような愉しみとしてのめまいが、突如「悪夢」にかわる現象は、洒を飲んだときだけにおこるものではありません。
シラフの状態でもしばしばみられるものです。その代表例は子どもの好きな遊園地での遊具の数です。メリーゴーランドやブランコ遊びにはじまり、ジェットコースターから宇宙遊泳まで、快感としての「めまいの遊び」がズラリそろえられていいます。
が、遊び疲れての帰りの車中で、子どもが車酔いして手こずった人も多いはずです。

からだにはおなじ作用のはずであるにもかかわらず、楽しみと感じるうちはこころが高揚しています。その一点をすぎる、ないしは楽しみと感じるこころがなければ、吐き気をもよおすほどに苦しむことになるのです。

まことに摩訶不思議としかいいようのない現象ですが、その一因は生理学的には平衡感覚の問題にあるのです。

酔いの出発点といえば、当然「ほろ酔い」です。いわゆる1杯機嫌の状態です。少量のアルコールが体内にはいったあとの、身もこころもとろけていくようなあの感じは、飲兵衛にとっては、まことにいいようのない解放感のはじまりです。

疲れがとれる。すなわちそれまで緊張をしいられていた筋肉が弛緩しはじめます。シラフの状態では寡黙、まじめで通っていた方々の口もしだいにほどけてきます。つまり、精神的緊張がほぐれてきます。

からだが温まります。体内に注入されたアルコールがエネルギー源としてはたらくぼかりでなく血管を拡張します。そこで、心臓の機能も活発になり、からだの深いところから37度に温められた血液が、皮膚表面ちかくの末梢血管にむかって一気に駆けのぽってきます。

ちなみに、このほろ酔い状態とは、医学的には「アルコールの血中濃度が0.05~0.25% の段階です。これは日本酒でいえば1~3合、ビール大瓶だと1~3本程度を飲んだ状態になります。う

ほろ酔い、この状態を、古人は「羽化登仙の境」といいました。羽が生えて仙人のごとく空にものぼるここちです。ところが、飲酒の初期段階のこの楽しい状態は、生理的にいえば位置・運動の錯覚現象であって、まぎれもなくめまいの一種です。

酒を飲んだときに体内でどのような現象が生じるのか、かんたんにいえば、アルコールの人体におよぼす作用の本態は「麻酔作用」にあります。酔ったときというのは、からだ(とくに大脳)にかるい麻酔作用がかかった状態と同じだと理解してください。もっと正確にいうと、ほろ酔い状態とは、アルコールの麻酔作用によって、大脳の下部に位蜃する脳幹から脊髄にかけて広範な領域を占めている「網様体」というコントロールセンターの統制がきかなくなる状態のことです。

このような状態では大脳皮質の活動がおさえられます。からだにとってはもっとも原始的なコントロール器官ともいうべき網様体の機能がストップするため、連動して思考や判断力をつかさどっている大脳皮質の機能が正常にはたらかなくなるわけです。

これがほろ酔いの出発点です。つまり、シラフの状態のときは正常に判断し、からだにあれやこれやと指示をあたえている大脳皮質のはたらきにブレーキがかかることになるのです。普段は誠実な人が支払いの段階でグダグタになるなどです。

青くなるのはシラフにもどった状態からであって、網様体、大脳皮質ともども抑制が解除された状態では、心身ともにハイの状態になっています。こうして大脳皮質の活動がおさえられはじめると、抑制はしだいに、全身の運動領域をコントロールしている神経系にも影響がおよんできます。飲むほどに、この麻酔作用も次第に強くなります。

めまいのカラクリ

だいぶ前おきが長くなりましたが、ほろ酔い状態で、麻酔作用が神経系におよび、足と眼に影響があらわれたのが、千鳥足であり、天井がまわりだす現象なのです。

足の神経に影響がでたとき平衡感覚が失調します。これはほぼ同時に眼の神経にも影響してきます。後者の現象のことを医者は「回転性めまい」といいます。

ちなみに、千鳥は左右の足の踏みどころを違えて歩く、その足つきがすなわち千鳥足です。つまり本人はまともに歩いているつもりではあっても、第三者からみると、なんとも危なっかしい足どりということです。

こうなるのは、もちろん足の神経系が乱れるためですが、それに天井がまわる現象があります。つまり眼の神経系の乱れによってもたらされる回転性めまいが加わることによって、あっちにふらふら、こっちにふらふらはさらにきつくなります。

なお、ほろ酔い現象についてさらに度をすごしたときには吐き気(悪心・嘔吐)をもよおすことになります。

この悪心・嘔吐現象は、神経系の乱れにくわえて、アルコールが体内で分解される過程で生じる「不快物質″」が悪さをすることでさらに強くなります。

まず、問題はめまいです。では、この回転性めまいとはなにかですが、この回転性めまいはシラフの状態でもおこることがあります。

本態は酔いなのだが、洒を飲んでいなくとも悪心・嘔吐がおこることがあります。乗り物酔いです。長く乗り物に乗っているときなど、本人の意に反した動きが長くつづくと耳管の前庭機能(三半規管のはたらき)が失調します。

ただし、このような現象は、その乗り物を本人が意のままにうごかしている場合はおこりません。したがって、かたわらに乗せた子どもたちが酔うことはあっても、ドライバー自身が乗り物酔いをおこすことはないのです。

飲んだ状態では乗り物が異なります。飲兵衛が乗るのは自動車のような物理的な乗り物ではなく、本人の意識の内にある「こころの高揚路線」です。

ところで、めまいは平衡失調以外でもさまざまなメカニズムでおこる。浮動感(ふわふわ感)や動揺感(ゆらゆら感)、あたかもエレベーターにでも乗っているかのような昇降感・身体下降感、立っているにもかかわらず、からだがつんのめるような転倒感など、医者が「非回転性のめまい」と呼ぶ一群のめまいがあります。

めまいは運動感覚の異常、位置感覚の異常、その他のもの、に類別されているが、もっとこまかく分けると、自分がまわる(回転感をおぼえる)のが「回転性のめまい」であり、浮動感・動揺感、昇降感・身体下降感、転倒感をおぼえるのが非回転性のめまいです。また、回転性のめまいのことを真性めまい、非回転性のめまいを仮性めまいと呼びます。

いいかたもあります。いずれのめまいであっても、ほとんどはなんらかの病気の兆候でうが、羽化登仙の段階ではこのような病気としてのめまいも少なくありません。

たしかに人が酒を飲むのは酔うためです。病的なうつ状態で飲むときは、精神的な落ちこみもあって、たいていはあまり酔えません。

その理由を説明すると次のようになります。

うつ状態とは、医学的には「極端な気分の低下によって生命活動そのもののエネルギーが失われている状態のこと」だとされています。

うつ病の本態はまだ十分に解明されていないのですが、このような気分や感情に障害のあることを示すうつ状態では、脳内では感情や睡眠に関係する細胞(モノアミン神経細胞)のはたらきの低下とともに、末端の神経から脊髄の神は経細胞を経由して視床下部→大脳皮質へと伝わっていく神経系の回路に破綻が生じていると推定されています。

ひとことでいうと、神経伝達に関与するさまざまな「受け皿」(受容体) が故障したり、回路がショートぎみになっていて、正常な神経機能そのものが作動しなくなっているのです。

肝心の神経伝達がすでに故障ぎみにある状態では、酒を飲んでもそれが精神の「賦括剤」としてはたらいてはくれません。

現象的には逆にシラフ状態でおこっていためまいが解消されることも知られているほどです。だが、このような場合、おおむね悪酔いないしは宿酔( 二日酔い)がのこってしまいます。

うつ状態、ないしはこころの憂さを捨てるために飲むときは、飲むことによって一時得ら一れるはずの快楽が得られず、宿酔地獄に見舞れてしまうということです。

飲むと肴がうまいは嘘

ところで人が酒を飲む楽しみのひとつに、酒の肴があるのは言うまでもありません。では、アルコールと味覚の関係はどうなっているのでしょうか?

酒を飲むと食欲増進作用がはたらくことは、言うまでもありません。事実、アルコールは酒精度8%以下であれば、胃酸の分泌をうながして胃壁も荒らすこともありません。そこで食欲増進剤として利用されることになるのです。

会食に酒がつくのもこのためなら、われわれが日々とっている晩酌も、疲れをいやすことと同時に栄養素の体内へのスムーズな搬入のためでもあるのです。

このことは別の面の弊害もあるのですが、とりあえずその話はおくとして、ここではあまり知られていないアルコールと味覚の作用についてです。

人間には目・耳・鼻・舌・肌の五感があります。生理的感覚(五官)に直せば視覚・聴覚・喚覚・味覚・触覚です。今日では、文明そのものが五感、五官のすべてを衰退させつつあるとの指摘も多くなりました。

ですが、目・耳・鼻の衰えには自覚はあっても、舌の衰えというのはとかく意識しつらい特徴があります。気づかずに、むしろ自分の嗜好ががかわったと思い込んでしまうこともあります。

その自覚があって、人知れず悩まれているかたがたのために助言しておけば、訪れるべき診療科は耳鼻咽喉科です。したがって、先のめまいの話につづいて、味覚のカラクリをとく鍵も耳鼻咽喉科の領域にあります。

耳鼻咽喉科の専門医によれば、味覚異常の悩みをもつ人は案外多く、学会で報告されたところでは年間およそ2万人の受診者があるというのです。しかし、味覚異常の治療が耳鼻咽喉科であることを知らず、内科に行ったり、本人に自覚がなく放置されている者までふくめれば、5万人程度いるのではないかとも推測されています。

内訳を男女で分ければ、男2人に女3人と、じつは女性のほうが多いのです。

味覚音痴が増えている

味覚音痴をうむ原因について、いま先端医学がとらえているのは亜鉛の摂取量不足です。といって、亜鉛そのものを直接とればよいという単純な話ではありません。

にきび、風邪、糖尿病、老化防止まで、現代人が必要とするミネラル「亜鉛」

人の体内には地球上に存在するほとんどの元素が含まれでいます。元素には多く必要なものと微量でよいものがあるのですが、後者のほうを「微量元素」といいます。

亜鉛はそのひとつです。参考までに、おもな微量元素をあげておけば、鉄、ヨウ素、銅、マンガン、亜鉛、コバルト、モリブデン、セレン、クロム、スズ、バナジウム、フッ素、ケイ素、ニッケル、ヒ素、カドミウムなどです。

一見しておわかりのごとく、毒物ではないかと思われるものばかりである。たしかに大量にとればからだが壊れるものばかりですが、きちんととれていないとからだに悪いことも立派に証明されています。

ちなみに、味覚障害の専門家があげる必要亜鉛摂取量は、体重その他、人それぞれ条件はヰ多少異なりますが、1日あたり10~15mg程度という範囲です。

この程度ならふつうに食べていればとれる量ですが、現実にとれていない人が5万人程度いるということは、いまの日本人の食生活がゆがんでいることを証明しています。

では、亜鉛含有量の多い食品とはどんなものでしょうか、これがじっに平凡。例をあげれば、緑茶、カブ・大根の葉っぱ、煮豆・納豆・豆腐などの豆類、白米。

動物性食品でいば牡蠣、レバー、小魚などです。つまり、気どってグルメ噂好の食品をあさるより、われわれ(とりわけ中年族)がアルコールの友とする肴のほうが、味覚の正常化には正解ということになります。

なじみの酒場でつきだし、おふくろの味のたぐいの食菜です。さらには鍋のタネ、ヤキトリのタネ、あわせて、ほろ酔いあとのあの美味なるお茶漬けサラサラもいいでしょう。

肝機能の衰えにも動ぜぬ庶民派の飲兵衛は、出費ささやかにして、はからずも夜ごと「医食同源″」を実践しているというわけです。

ついでながら、味覚については、グルメの元祖ともいうべき『美味礼讃』という古典的名著がある。『美味礼讃』にも人間の五感・五官に対するさまざまな考察がおこなわれているのですが、味覚の中心は舌覚にあるとといています。
ただし、それだけではたりず、頼・口蓋・鼻腔も大切だと記録されています。すなわち、味覚を補佐する喚覚中枢である鼻腔や、唾液、またそれを供給する頼の役割が重要なのです。

あわせて、味覚を倍化させるアルコールのはたらきもお忘れなく、とも述べられています。

しかし、現代医学のとらえかたはもっと精密である。専門医学書には「味覚とは、口腔内に舌面、口蓋部、咽喉頭部の特異的な受容器、すなわち味菅と化学物質の接触によっておこる感覚」のことだと書かれています。ひとくちにいえば、舌や口蓋部(とくに奥のほうのノドボトケのうえあたり)にある専用のセンサーとしての味菅(味細胞) が、味を感じとっているのです。

アルコールが舌をにぶくする

では、この味覚が正常はどの程度までかということを厳密に追求していくと、アルコールという因子をはさんだ場合、思わぬ事態が生じてくるのです。日本酒の等別をきめる際には「利酒」ということがおこなわれます。

洒をきく際には酒を飲んだあと1回ごとに水で口のなかを洗います。水で洗うのは舌の感覚をゼロにするというより、唾液などの影響を排するためです。

じつは、この原理と方法は「味覚音痴」になった人たちにたいしておこなわれる味覚(味膏機能)検査も同じです。

検査時には薄く味をつけた水(試液)が使われ、その味を感じとることができるかどうかが調べます。味覚機能を測るためには、試液の味は薄ければ薄いほどよい理屈となります。

そこで、たとえば塩味をきき分ける際には薄い食塩水を用いますそのあとは利酒と同様に水で口腔内を洗います。その際、正常な感覚者の舌は水を甘く感じたり、ときには酸味や苦味として感じるのです。これが正常なのです。

つまり、水にも味があることになります。

もっと身近な例でいえば、苦いものや酸っぱいものを食べたあとに飲んだ水は甘い味がします。たとえば、砂糖水のようなもので甘味にしばらく舌をならせたあと、水で口腔内を洗う。そのあと薄めのコーヒーなどを飲むと、同濃度のカフェイン真のものを最初に飲んだときより、はるかにつよく感じられます。これは塩味、酸味の味覚検査についても同様で、「交叉増強」といいます。

舌の感覚とは、かくも微妙にできているのです。ここでふたたびアルコールの話にもどりましょう。舌に特定の刺激をあたえつづけていると、しだいに味覚はにぶってきます。

この現象を「順応」というのですが、アルコールをとりつづけている場合、当然、この順応がおこります。しかもアルコールの刺激はかなりつよくなります。そこで、ことにレストランでの会食時などでは、この現象が問題となります。

先の味覚検査のルールからすれば、Aの味のする料理をとる→水を飲む→Aとことなる味の料理をとる→水を飲む… と、くり返していけば、舌の感覚は鋭敏度が高くなっていきます。

しかし、アルコールがはいった場合には、おおむねこうはいきません。料理のでる間隔やその日の心情によって、たいていはアルコール搬入のほうのピッチが上がります。アルコールによる順応が先行して、最終コースにはいったころには、自分がなにを食べているのかわからなくなったりするのです、飲兵衛の場合には通例となりがちです。

したがって、この理屈からすると、料理とともに酒を飲む場合には、本人が美味いと思っているのは舌の感覚ではなくて、多分に心理的なものだということになります。少々つらいところですが、よく飲兵衛がいうところの「飲むと肴が美味くなるのだ」という理屈は、舌のもつ順応の仕組みからすると原理的に成り立ちません。

もっとも、重ねてグルメ元祖の高説を引用すると、彼は「食味に際しては、ゆっくり食するのが「選ばれし者」 つまりグルマンディーズ(美食愛)のこころをもつ者の必須与件である」といいます。

「味覚は順時刺激をうければ、風味幾重にもあることのかぎ分けも可能となりますが、そそくさと食べる者にはグルメの資格なし」と警告しているのです。ただし、からだの理にもかなった託宣というべきであろう。

一気飲みはうまくない

人が酒を飲む最大の理由は、いうまでもなく洒そのものの「うまさ」にあることは間違いありません。しかし、このうまさは一朝一夕にしてわかるというものではなく。よく知られているように味覚には甘味、苦味、酸味、塩味の4味があります。

この舌の味覚領域に関して、科学的な観点から4つのジャンル分けをしたのはへニングというドイツの心理学者で、今世紀はじめのことです。

すなわち、甘味=舌先部、苦味=舌根部、酸味=舌側線部、塩味=舌の中央部を除いて均一というものですが、今は、苦味は舌側線部でも感じていることも確認されています。

洒の味は、説明するまでもなく、原料や酒造法によって微妙に異なります。

たとえばビールは苦味がつよいのが一般的です。ご存じのように幼児は苦味が苦手です。したがって酒を味わうためには、基本的にこの苦味がわかる年齢に達していることが前提となります。

とりあえずは、どこかの時点でアルコール初体験がおこなわれることになるのですが、やっかいなことにアルコールと名のつく液体には「度数」の強弱が伴います。

もちろん初体験者でも、ビールが低濃度でウイスキーが高濃度だというくらいの知識はもっているものの、肝心の体験がないのです。

そこで、好奇心プラス体力への過信もあって、おうおうにして種類や度数を問わず「一気飲み」 というおろかな行動に走ります。
したがって、さめた目でみれば、一気飲みも愚行の一種であることにちがいはないのですが、豪快な飲みっぶりにはそれなりの魅力もあります。

たとえば、日本酒ワンカップ(1合=0.18L)をイッキに飲んだとします。度数15% として計算すると、そのなかには約27 gのアルコールが含まれていることになります。

成人でのアルコールの平均代謝量は、生理学的には体重1kgあたり22時間00.1gとされている。そこで、飲んだ当人の体重をかりに60kgとすると、1時間あたりの代謝量が6gなので、血中アルコール濃度がゼロになるまでには、4.5時間かかることになるのです。

しかし、一気飲みの場合には、短時間に大量の酒が体内に投入されます。結果として、血中アルコール濃度が急カープで上昇します。

酒を飲んだときもっとも問題となるのは、この血中アルコール濃度と体内機能の開値の閾値になります。閾値というのはその人間の許容量(アルコール代謝の限界能力) のことです。この「代謝」が飲酒時のキーワードとなるのです。

この代謝という現象についてですが、人が生命を維持していくためには、外界にある食物や酸素などとの物質交換が絶えまなく必要です。

代謝とは、そのために体内でおこなわれる物質の合成、分解、エネルギーの生産などの化学的反応過程のことをさしています。
俗に「新陳代謝」といわれるが、化学的には「物質代謝」とも言われます。かんたんにいえば、われわれの体内で常時おこなわれている「ひとつの物質が別の物質にかわる作用」のことです。

なお、食べものを摂取したあと、吸収されてから排泄されるまでの過程の化学反応のことを「中間代謝」といいます。アルコール代謝もこれにあたります。

そこで、その人間にどの程度のアルコールの代謝能力が備わっているかという基準が、アルコールの閾値だということになります。吐き気・嘔吐、運動失調をきたすのは、血中アルコール濃度が200mg/dl を超える時点です。300mg/dlを超えると昏睡に陥ります。

体液量(体内の総水分量)に換算していえば、人のからだは0.1~0.2% (平均的な日本人の場合、ビール大瓶換算で3~5本分飲んだ状態)で酩酊状態になります。

泥酔状態とは0.2~0.3% 程度(ビール大瓶換算で6〜8本)で、それ以上濃くなると肝臓での代謝能力はおろか、生命のコントロール機能そのものが維持できなくなるでしょう。

ということは、もともと体内には存在していない物質であるアルコールが「有毒物質」として身を攻めることになるわけです。

これが症状としてあらわれるのが「急性アルコール中毒」です。ひどいケースでは昏睡から死にいたる場合もあります。飲酒体験ゼロの人では、当然のことながらこの閾値が不明です。ゼロかもしれないし、先天的に一斗も辞せずという豪の者かもしれません。

ふつうは、経験をつむにしたがって自分の閾値のなかで、その日その日の上限をきめることになるのです。だから、アルコール未体験者は、代謝能力ゼロとみなしておくのが安全ということになります。

つまり、未体験者のイッキ飲みは愚行と切り捨てるよりありまえん。しかし、ここでわたしが考えたいのは、行動の愚かさのことはおくとして、あくまでこの一気飲みという若者たちの「青春の通過儀礼″」が、はたして酒の美味なる味わいを知ることができるかという点です。

しかし、酒の道には厳然として酒豪と下戸の個人差があって、これにはほとんど逃げ道がありません。ただ苦しい思い出のみの初体験から、以後は酒を断たれた人もいることでしょう。

「吐く」のは上司や世相の悪口ばかり、というところまでなり上がった酒豪の人もいるでしょう。

一気飲みと、飲兵衛がしばしばおこなう迎え酒。飲んでは吐き、吐いてはまた飲んで、こころのトキメキはそのくり返しのなかで生まれるもの、といったところが飲兵衛の道を選択されたかたがたの最大公約数的意見でしょう。

酒豪と下戸の差

ところで、飲兵衛がひとしくあこがれる「酒豪″」というのは、科学的にみればあくまで相対的な概念です。いくら飲兵衛といえども、自分の閾値(飲む量の限界域)を超えれば、やはり二日酔いの運命はまぬがれることはできません。では、この「酒豪度」なるものは存在するのでしょうか。

みずからの所有する肝臓の、その日その日のアルコールの分解能力のパワーによるところが大きいのだと考えています。

この点での世間一般の常識ではどうでしょうか。はたして酒豪の資格とはなにか。どの程度飲めれば酒豪と評されるのか。肝臓専門医たちの取りきめでは、日本酒換算で1日3合以上、少なくとも5年間飲みつづけている飲兵衛のかたがたのことを「常習飲酒家」と呼んでいます。

これが5合以上少なくとも10年以上の飲酒歴をもつ、あるいはもっと短期間であっても同等量飲んだとみなされる人たちの場合は「大酒家」となります。

現実社会には、飲める者(酒豪)と飲めない者(下戸)が存在しますが、この差は体質的な素地、手っとりばやくいえば「飲兵衛」の遺伝子の持ち主であるかどうかできまります。当然、個人差だけでなく、民族差もあります。

アルコールが体内で代謝される化学的な過程には、アルコール( エタノール)→アセトアルデヒド→ 酢酸(アセテート) 1 水と炭酸ガスというプロセスがあります。

とくに問題とされているのはアセトアルデヒド→酢酸の過程です。ちなみに、このアセトアルデヒドは二日酔いの元凶とみなされています。

アセトアルデヒドの分解には、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)という物質が不可欠です。ALDHという酵素は、現在までのところⅠ型からⅣ型までの4つのタイプが見つけられているのだですが、日本人を含めて東洋人の約半数にはⅠ型因子が先天的に欠乏しています。

分解酵素がなければ、アルコールは最終ゴールである水と炭酸ガスにまでたどりつけないのです。当然、からだの側から拒絶反応がおこされてしまいます。Ⅰ型欠乏者(飲むとすぐ真っ赤になる人)とは、すなわち「先天性下戸」です。
こればかりは遺伝子を恨むよりありませんが、日本人ではおよそ4割の人たちが該当します。

アル中の定義

ある人がこう述べています。

自分は本当に酔いたくて飲んだことはあまりない。夕食時に晩酌するのも、酒を飲まないと、料理と一緒に飯を大量に食べてしまうからである。酒に酔う必要に駆られたことは一度もない。酒に酔わなければつきあえないような人間とは、もともとつきあっていない。酒を飲んだための効果というものはまことに信用できない。

(飲んだ) 量、種類、時、飲んだ人間によってたいへん異なる。パトリックという学者などは、酒は精神上の能率を上げるなどと書いているが、われわれが通常酔った人間の上に見るのはこれと正反対のものだ。政府の調査では、疲労回復の目的で飲む者が四六パーセントだったそうだが、前夜酒を飲んだと称している人間を観察した場合、そこに見られるのはたいてい疲労の色である。

人は百人百様です。飲兵衛の方々からはいささかの反論もあろうかと思いますが、ご自身の経験をふまえてのこの観察には、当を得たところがあるとうなずかれるかたも多いと思われます。

飲兵衛と目される人にも、常習飲酒家と大酒家のちがいがあるのですが、しかし、酒嫌いの人たちからみれば、どちらであっても「アル中」にみえるかもしれません。

事実、世間一般に用いられる「アル中」とは、常習飲酒家、大酒家の別なく高度の飲酒家をさして用いられることばではあるのです。もっとも、医学的な正確さにこだわっていうと、アル中とは、いわば「一気飲み」のような「急性アルコール中毒」の略称であって、アルコールを常飲する者におこる異常や障害は「アルコール(依存)症」です。

「急性アルコール中毒」と「アルコール依存症」の病態のちがいについてはここでは省略しますが、ここではまず、世間一般に用いられている「アル中」(アルコール依存症) の問題を考えてみましょう。

嘘が通用しないアルコールテスト

アル中者は、医学的概念でとらえるより、むしろ社会的概念としてとらえるべきではないかとの意見をしばしば見うけます。
アルコールヘの依存性を量的な観点より、その人の社会的適応性の面で判断するほうがより妥当ではないかとする考えかたであって、この論議はしばしば新聞の文化欄などをにぎわしています。

その論議は、おおむね、つぎのような「社会観察」がベースとなっています。

夜な夜な鯨飲する、というより飲むことこそわが生きがい(とみえる)職業人は意外に多いのです。一見、飲酒の合間に仕事をしているような人は、けっして少なくはないのです。

ことに画家や作家など創作的な活動に従事している人たちには、アルコール愛好家が多数います。このような飲兵衛の良質な部分まで含めてアル中と呼ぶのはへンではないでしょうか。

むしろ、酒量わずかといえども、宿酔を理由に3日とあけずグータラ欠勤をきめこむ連中のほうをアル中と呼ぶべきではないでしょうか。

たしかに、もっともな話ではあります。ポイントは飲む人にとっての「依存」の程度問題だということになります。医学的見かたからすれば、行きつくところまでいった人が「アルコール依存症」だということになるのですが、この種の論議では、その核心となるはずの「依存」の本態にはあまりふれられていないようにも見うけられます。

では、日常生活のなかでどの程度まで飲んでいる人を「アル中」というのでしょうか。とりあえず、世間一般の基準というより、専門的に解析している研究機関での例を紹介します。

アルコール症についての研究と治療の場として名高い、神奈川県久里浜市の国立療養所久里浜病院でつくられた「アル中度」を測るテストに、「久里浜式アルコール・スタリーニング・テスト」という自己診断テストがあります。

一般的には「KAST」という略称で知られています。かんたんなテストです「異常」の自覚の有無は、過去6ヶ月間の行動です。

まず、対人関係の円滑度が問われます。飲むことに対する自己規制のきもちのありなしが問われます。他人からの非難の有無が問われます。酔態が問われます。飲酒翌日の記憶が問われます。
休日の飲酒パターンが問われます。仕事への影響が問われます。関連する病気の診断や治療の有無が問われます。飲んだ際の異常の有無が問われます。寝酒の有無が問われます。仕事と飲酒のかかわりが問われます。日々の酒量が問われて、警察にやっかいになったかどうかが問われます。そして、酔うと怒りっぽくなるかどうか問われます。見てわかるようにこれら14の質問は、飲兵衛が心情的に(も本能的にも)イヤがるものばかりであす。

採点は減点法でおこなわれます。マイナスに傾けば正常。プラス点が多いほどアルコールに対する依存度が高いことになります。
プラスの点が高いのはおおむね対人関係です。自宅や休日の行動、つまり自分だけの世界でへベレケになっていても、他人に迷惑をおよぼさなければアル中指数は低いことになります。この点からすると、.「KAST」では、アル中者を社会的概念としてとらえようという姿勢がつよいことがわかります。

ところで、アルコール依存症についての啓蒙書の多くには、先に紹介した「KAST 」を本人で試した場合には多くの者がウソをつくため、このテストはかならず当人ではなく、家族が記入しなければならないと書かれています(じつに痛いところをつくものである)。

はたして、ほんとうにウソをついているのでしょうか。・たとえば「KAST の質問項目にもあるように、われわれの生活には「商売や仕事上の必要で飲む」ことが少なくありません。このような場で飲むとき、相手に対するおもんぱかりもあって、まったくの下戸でないかぎり、たいていは自分も多少はいける顔をするのが一般的です。

また、この程度ならまだ酔わないはずだと思いながら杯を重ねていくのが、仕事上の必要で飲むときの常です。場が移るにしたがって、いつしか緊張のタガもゆるんでくるのが自然です。

すなわちアルコールの麻酔作用がすすむということです。それだけにとどまらず、やがては悪酔い、宿酔の憂きめをみる人たちが少なくないのです。

ならば、もうつきあい酒は絶対やめますか、と問われて、ハイとこたえられるものでは決してありません。とくにつきあい酒は相手あっての飲酒の場です。
当然お互いが相手の限界までつきあおうということになります。さまざまなしがらみから、わかってはいてもやめられないというのがつきあい酒のつらいところでもあります。

このような場が、酒豪をつくりだす一方で、自覚されざるアル中をつくりだすひとつの基盤ともなります。

アル中者を社会的概念としてとらえる見かたに関連してもうひとつ、国民のアルコール問題に対する厚生省の考えかたも紹介しておきましょう。

厚生省の考えでは、まず飲酒を労働災害や生産性低下などの産業の問題、交通事故や犯罪、家庭の崩壊などの社会問題としてとらえます。

ついで、未成年者の飲酒、妊婦の飲酒、キッチンドリンカー、高齢者の飲酒などの社会問題です。国家的見地からすれば、飲兵衛の問題とは、第一に産業的、社会的な問題となるわけです。そこで、「アルコール関連問題」対策の項をみても、これらの問題解消が先に立つのは言うまでもありません。

たとえば、「一般国民に対しては、健康で豊かな生活を送れるよう、アルコール飲料に関する正しい知識と適正飲酒の教育をおこなう」ことが必要であり、「大量飲酒者に対しては、アルコール関連障害の発生を予防するために、健康に有害とならない適正飲酒の実行を指導する」こと、また「アルコール依存症者や回復途上者に対しては、必要な治療を供給するとともに断酒継続のために「断酒会」等の自助グループの育成をおこなう」ことになります。

もっと強くいうと、「一次予防の観点から適正飲酒の普及と、これにくわえて、二次予防の観点から、問題飲酒者の早期発見と初期介入にも重点がおかれてきている」のです。

なお、同書の分類によれば、飲酒者とは「一般国民」「大量飲酒者」「アルコール依存症者及びその家族」および「回復途上者等」という別に分けられています。「大量飲酒者」群とは、1日のアルコール量150ml(日本酒換算で5合半、ビール6本、ウィスキーダブル6杯)以上とる人のことだとされています。

一般的にはこのあたりがアル中の量的な基準といったところになると思います。ちなみに、統計的に示されている大量飲酒者は、平成元年時点で210万人ほど存在します。また、入院治療を受けたアルコール症の患者は推定でおよそ2万人程度です。
差し引き200万人は肉体的、精神的なアルコール依存の自覚ももたずに、日々飲酒をつづける人たちだということになります。
前の「KAST」の基準と重ねあわせれば、「大量飲酒者」であっても、問題飲酒者でなければ、まあアル中とみなすことはよそう、ということになります。
しかし、「KAST 」で確実に高点をとることが予測されるかたがた、つまり異常行動の自覚の高い人はおくとしても、一般にやや速断にすぎるといわれるかもしれませんが、れたしだけでなく、 多くの飲兵衛を自負されるかたがたには、自分がふだんの飲酒時に異常行動をとっているという自覚はあまりないのが一般的です。

アル中の前提条件

「依存」にはつねに2つの面があります。身体的な側面と精神的な側面です。身体的な依存とは、アルコールに限定すれば、理由のあるなしにかかわらず、とにかく毎日飲みつづける人たちのようなケースです。

それも大量に飲酒しなければ、からだが納得しないという状態になっている場合です。むしろ、飲んだときのほうが本人の活動力が高まると本人は思っています。

したがって、仕事中に飲むこともあり、飲みながら仕事をする人もでてくることになります。精神的な依存とは、飲む、飲まないにかかわらず、飲みたいというきもちだけは四六時中つつくような状態です。そこには明確な意識のはたらきがある。精神的な「禁断症状」といってもよいでしょう。

どちらの場合も酒を飲むことによって、その症状は一時的にはおさまる。したがって、一見、どちらもおなじではないかというようにもみえてしまいます。もちろん、盾のうらおもてのような関係にあることは事実なのですが、アル中を「社会的概念」としてとらえようという立場からは、精神的な依存からとらえようとします。

それは、酒への精神的な依存度の高い人のほうが、社会生活をいとなむうえでより困難をきたしやすいとみなされているためです。とすると、酒を飲むまえの分析をおこなわずに、飲んだあとの行動の逸脱のみをうんぬんすることには、どうしても無理が生じるような気がするのです。

であれば、アル中(アルコール依存症患者)とはなにかということを考える場合にも、まず酒を飲む分析からはじめることのほうが妥当なのではと考えます。

いうまでもなく、飲んで酔う人のすべてが依存症(アル中) におちいるというわけではありません。大量に飲んだ人の50%は、翌朝に疲労の色がのこります。二日酔いにもなります。

だから、飲酒行為を短期的にとらえた場合には、依存におちいる前に、たいていの人はからだがダウンして、そこまでいかないのです。

洒を愛する多くのかたがたが、いかにすれば自分のからだを壊さずに、しかも社会的摩擦をおこさずにすむかを、ともに考えていきたいというのが基本姿勢です。

ここで、まずわたしが考えたいことは世間一般にいわれるような「アル中」の前提条件とは、具体的にいうとどんなことなのかということです。

つまり、人によっては、わずかな酒量であっても二日酔いをおこしたり、世のひんしゅくを買ってしまうような行動をするのはなぜか、という点です。さらに、もっとつきつめれば、人は量的にどこまで飲むことが可能なのか。そして、どの程度飲めば「異常」な行動をするようになるのでしょうか。

また、その原点はなにかということでもあるのです。アルコールは肝臓で代謝されたのち最終的には水と炭酸ガスになります。アルコールはただのろか水とはちがって血管内に入る速度もはやく、腎臓で濾過されて尿にかわる速度も早いのです。

肝臓、腎臓いずれも身の内の器官であって、それぞれの臓器にはおのずと能力の限界があります。その上限をこえ肝臓での代謝能力をオーバーすれば、体内には分解されないままのアルコールがあふれだすのは当然です。

これが血中のアルコール濃度の上昇である。この理屈を無視して飲みつっければ、一気飲みの例でみたように、最終的には泥酔→昏睡というコースをたどります。
したがって、ふだんからその人に許容された開値を超えてまで飲みつづける癖をもつ人たちは、やはり「アル中」というほかはなくなります。

快楽に導くモルヒネとは

そこで、ふたたび問題は、人が酒を飲んで酔うのはなぜかという原点にかえることになります。酒を飲んだときに、人の体内で生じるこの「酔う」という幻妙な変化は、どんな化学的法則によってもたらされているのでしょうか。酔うと精神が高揚する。この現象です。

かつて薬理学者の間で、この酔いの根源をめぐつて、これをアルコールによる興奮作用としてとらえるべきか、はたまた神経の麻酔作用としてとらえるべきか、との論争があったそうです。

飲むと酔う。大量に飲んだときには神経がマヒしてしまう。このため、たとえば少々の打撲を受けてもその当初は痛みを感じないのです。

であれば、アルコールの神経に対する作用は麻酔作用だということになります。しかし、少量の場合はどうでしょうか?ほとんんどの飲兵衛がそうであるように愉快になります。そしてはしやぎ騒ぎます。これは明らかに麻酔というより興奮作用としてとらえられるものです。

ですが、結果的には、この論争は「麻酔の作用である」ということになりました。麻酔剤は大量に使えば名のとおり麻酔剤ですが、少量ではかるい興奮をもたらすためです。この興奮→麻酔は、いずれもアルコールの大脳皮質への刺激作用です。そこで、大脳皮質のはたらきを考えると、ここは人の意識や行動のすぺてをコントロールしているところです。

もう少し詳細に言うと、からだに対する刺激は、じかに大脳皮質に伝えられるのではなくて、その下部にある「網様体」というところを中継しておこなわれているのです。

網様体とは、脳幹(中脳)から脊髄にかけて網目状に存在する感覚の調節中枢です。アルコールの摂取は、この網様体の機能を低下させるのです。

この機能が低下すれば、大脳皮質に伝えられるはずの各種の刺激は、当然のことながらうまく伝わらなくなります。というより、網様体本来の役目である調節作用のタガがゆるくなるため、大脳皮質はかるいマヒ状態となります。

ひとくちに大脳皮質といっても、さまざまな皮質があります。日常の記憶や行動の判断をおこなっているのはもっばら「新皮質」と呼ばれる部分です。

飲んだときには、ここにマヒがかかる。すると、それまで新皮質によっておさえられていた大脳辺緑系の抑制がとれます。大脳辺緑系の部分は、本能をつかさどる部分です。

人が社会生活をいとなむ際には解放された状態では不都合なことが多いため、ふだんは抑制されているのです。アルコールの摂取は、一過性にこの大脳辺緑系の抑制を開放してしまいます。そこで、見た目には精神が解放されたような現象がおこることになるのです。

余談ですが、痴呆症でも類似した現象がおこります。痴呆症の場合は、新皮質の神経細胞が破壊されるために一種の先祖がえりに似た異常行動をとるのですが、ただし、これは一過性ではありません。

いずれにせよ、アルコールの摂取による初期の段階でみられる「1杯機嫌」の状態とは、網様体の機能低下によって大脳新皮質のはたらきがマヒし、大脳辺縁系の動物的部分が顔をだす状態なのです。

アルコールの麻酔作用がもっとすすむと、やがては大脳辺縁系のうちの旧皮質だけでなく古皮質といわれる部位にまでおよびます。
すると、感情の抑制解除だけでなく、それが行動面にもあらわれることになります。これがすなわち泣き上戸、怒り上戸の出現となるのです。
酔いがもっとすすむと、アルコールの麻酔作用は大脳皮質のうち、運動野(領域) をコントロールしている部分や小脳にまでおよぶことになります。つまり、運動神経にまで麻酔がかかった状態となって、千鳥足が出現することになるわけであす。

かんたんにいえば、アルコールをとったときには、その麻酔作用がアタマにくるというのが酔いの本態です。最近の説で感情面の変化についてもう少し補強しておけば、酔った際には、脳内に「エンドルフィン」という一種のアミノ酸が分泌されていることも確認されています。このエンドルフィンは別名「内なるモルヒネ」ともいわれるほど、強力な鎮痛作用とともに多幸感をもたらすモルヒネそっくりの作用をもつ「快楽物質」です。そこで、エンドルフィンの分泌によっても、こころがハイになる。エンドルフィンの分泌がたかまったところでストップできれば、まず問題は生じないのです。

しかし、飲んだときの多幸感を追い求めるあまり、際限なく飲みつづければ、やがてはアルコール依存の事はじめとなります。したがって、平均的な飲兵衛ではほろ酔い気分まででとどめるのが上策ということになります。

ホームレス=アル中

では、結論的に「アル中」とはなんでしょうか。くり返しますが、医学用語上での「急性アルコール中毒」のことではなく、ここではあくまでも一般に使われる「習慣性通年性アルコール多飲症」あるいは「喜びも悲しみも酒々依存症候群」の患者としての話です。

人はシラフでも百人百様です。当然、飲兵衛にも百態の個性があります。まずあらわれるのは、ご存じのとおりストレスや緊張がほどけたあとの意識下の感情です。

感情がたかぶれば自分の年を忘れ、使いなれぬ腕力をふるってホゾをかんだりする場合もあるでしょう。このようなジキル博士変じてハイド氏になる現象は、たいていの飲兵衛が一度や二度は経験ずみでしょう。

話はいささか飛躍しますが、飲酒が身をほろぼしているかにみえる一群の人たちがいます。昼間夜間にかかわらず駅構内や公園で酔ってタグをまいているホームレスです。この人たちの酔態に、アル中者像のひとつのイメージをもつかたがたもいるでしょう。

そこで、この人たちと、まだ家族やその他との社会的つながりをもっている大量飲酒家(KAST高点者)の体内生理を比較してみましょう。
じつは、ここにはふだんの食生活からくる大きなちがいがみられます。かりに、酔ってクダをまいているホームレスたちが、さしたる食べものもとらず、つねに低栄養状態にあるとすれば、外見にはいくつかの特徴が生じるでしょう。

栄養物の摂取量が減少すると、体内で真っ先に消費されるのは蓄積されている脂肪分です。備蓄が底をつけば、もともと体内に備蓄分のない蛋白まで消費されることになります。このため、皮下脂肪や筋肉の蛋白がうしなわれ、骨格がうきでて、眼のまわりも落ちくぼんでしまいます。

皮膚は薄くなり、乾燥してつやがうしなわれます。筋肉はやせほそり、外見上は全体的に弛緩した印象になります。医学的にはこれを「るいそう」(皮下脂肪の顕著な減少)と表現します。

見た目にはただの透明な液体とはいえ、アルコールは1gで7kcal の熱量をもち、脂肪に次ぐ高熱量食品です。したがって、そこそこに飲酒していれば、生命を維持するうえで必要な最低カロリーだけはなんとか摂取できるのです。

しかし、このような状態がつづくと、生理学的には「細胞外液」と呼ばれる体内水分が増加してきます。いわば「水ぶくれ」の状態です。そして、全身にむくみ(浮腫)がでます。

つまり、栄養不足でやせているにもかかわらずスマートというにはほど遠く、身体全体が膨らんでいる印象になるのです。体内では、ほかに血圧や体温の低下、貧血などの症状があらわれることもありますが、これは外見からははっきりしません。
やや乱暴ないいかたになりますが、生理的には飢餓状態のようなものなのです。この状態におかれた人たちは、過度の栄養障害の影響で神経系が過敏になっています。

たとえば手足やくびなどがピタピタとけいれんします。人格に変化がおこり、注意が散漫となり、精神が不穏となります。ささいなことで口論をふっかけたり、ヒステリー症状をおこしたりします。

これらの行動は一見アル中のような行動を示すものの、経済状態から考えてもそれほど大量に飲んでいるとは思えません。つまり、ホームレスたちはアル中と呼ばれるほどには飲んでいないことになるのです。

ホームレスたちとちがって、「アル中行動」を示す大酒飲みの場合には、家族や社会とのきずながそこなわれていないかぎり、まがりなりにも1日に2~3食はとっていると考えられます。
つまり、からだが必要とする最低限度の栄養素と量はとれているとみなすほうが自然です。

もっとも、飲むばかりできちんと食事をとらない飲兵衛や、ホームレスたちに似かよったライフスタイルの人であれば、つまり飲酒が仕事外時間だけにとどまらず、四六時中アルコールを主エネルギー源とし、副食物としてはもっばら鳥の餌ようのものだけをつついていれば話は別ですが。しかし、ホームレスの行動には、イメージするアル中とダブる部分がなくもないのです。

たとえば、注意が散漫、精神が不穏などの人格の変化、すなわち神経系が過敏となる現象です。酒肴にはもっばら鳥の餌ようのものだけを食べる癖をもち、日々の必要栄養素のインプット量がアウトプット量を下まわることをうかがわせるかたがたも同様です。

これらの異常が行動にあらわれる典型が、すなわち「酒乱」です。一般にアル中と呼ばれるのはこのような人たちでもあるのです。

ストレスが酒乱をつくる

酒乱とは、飲んだときにとる言動が社会的な許容限度をはみだす人たちのことです。意識の乱れとともに行動の乱れがあります。
乱れの大本は、前に述べたように大量のアルコール摂取によって網様体の機能が低下し、大脳皮質がコントロールをうしなうことです。

では、なぜ社会的な許容度をこえてまで乱れるのでしょうか。シラフであっても、われわれの日常生活や精神病理の世界のなかには、酒乱を生みだす要因がひそんでいるのでしょうか。

その要因のひとつは、ほかならぬわれわれ自身が酒杯を手にする理由づけに多い「ストレス」のカラクリになります。ストレスとは、不安、緊張、うっぶん、不和、煩悶、その他もろもろ、この地上すべての事物が発生源となって襲いかかる心理的負担のことです。その原因はメンタルなものだけでなく、暑さ寒さ、騒音、けが、アレルギー、絶食、筋肉労働、感染、ビタミン不足などさまざまにあります。

医学的定義にしたがえば、ストレスとは「もろもろの外圧に抗してからだが懸命に支えようとするけなげな防御反応」のことです。外から刺激があたえられたとき、からだの恒常性( ホメオスターシスという) は一次的に乱されます。乱されたところはねじ曲がります。

当然、からだの側では乱れを修復しょうと機能します。この一連のはたらきがストレスです。いうなれば、ストレスとはからだを介しての外部と内部の摩擦過程そのもののことなのです。

ストレスには3つの段階があります。第一期を「警告反応期」。医学的には下垂体=副腎皮質系が活動を始める初期段階のことをさすのですが、これはさらに「ショック相」と「反ショック相」の2つに分かれます。

ショック相というのは、からだがショックを感じて反撃を開始する時期のことです。最初は体温の低下や低血圧などにくわえて、たとえば無力感、無気力におちいるなどの精神活動の低下や、グッタリしたり、けだるさを感じるような筋肉の緊張の減退などがおこります。

ショック相はやがて反ショック相に移行します。からだはショックから立ちなおり、ショック相とは逆の変化が生じます。体温や血圧が高くなり、神経や筋肉の活動も活発となります。いうなれば、からだの側が「反転攻撃」に移る段階です。

いやなものにたいしてはだれだって攻撃的になる理屈です。このからだが反転攻撃に移った段階が「抵抗期」と呼ばれる第二期となります。

ストレスが長期化するにしたがい反転攻撃が継続します。ならばストレスに打ちかってやろうと、からだがけなげにも抵抗する時期といってもよいでしょう。

第三期は「疲はい期」。文字どおり疲労困憊の状態です。からだの側がストレスとの葛藤に疲れてついにギブアップする段階で、この段階を放置しておくと病気になってしまいます。

しかし、第二期にみるように、人の体内には「外圧」に対抗する機構がそなわっている。要はつねに外からの圧力を体内の反発力が上まわっていればよいわけで、そんなストレスにうちかつ生体の抵抗力のことを、ハンス・セリエという学者が「交差性抵抗」と名づけました。

交差性抵抗とは、自分で訓練してストレスにたちむかう、かつての日本人が好きだった〝「○○道」に類する精神修業、たとえば昔からおこなわれてきた僧職者や山伏その他の荒業、あるいはヨガなどを含めた心身鍛練法、自律訓練法などです。

もちろんそのうちには、アルコールの力を借りてのうっぶん発散法もはいります。しかし、かんじんなのは、この交差性抵抗は「あるストレス要因にたいする抵抗力は増しても、ほかのストレス要因にたいする抵抗力をうしなう」というあい反する現象もあわせもちます。。

この交差性抵抗現象を、飲兵衛のこころとからだにおきかえれば、飲むことによって一面ではたしかにストレス発散(第二期)をしているものの、量的なエスカレーションにともなって、同時に第三期(疲はい期) にまで突入している状態とは言えないでしょうか?

こころの病んだあらわれが、すなわち酒に飲まれての「乱れ」現象をもたらす元凶ともなっているような気がするのです。

いいかえれば、酒乱にいたる人たちが日々大量に飲酒する心情のうらには、もろもろのストレスにかちたいと切にねがうこころの「反乱」があるように思えます。

飲んだときの脳はこのような状態です。