酔ったからこそ知り得る体の不思議

酔ったからこそ知り得る体のこと

飲兵衛の息はなぜ臭いのだろう?

洒の香りはじつに芳醇です。飲兵衛にとっては、この香りには抗しがたい魅力です。しかし、ひとたび体内にはいったあと、飲んだ人の吐く息、立ちのぽるにおいは、ご存じのようになんとも形容しがたい「悪臭」となります。

これはなぜでしょうか。順序として、最初に、酒を飲んだときには、体内でどのような過程をたどるのかという点から考えてみましょう。
アルコールの最大の特徴は、なんといっても吸収されやすいことです。物理的特性をあげると、アルコール( エタノール) は化学用語でいうところの低分子物質です。
つまり構成している分子量が小さいので細胞膜での透過性が高いのです。

したがって、組織のなかに直接とりこまれる性質をもっているふつうの食べものは、胃や腸などの消化管で、いったんドロドロにこまかくし、粘膜を通過できる分子量にまで小さく分解処理をおこなわなければなりませんが、アルコールの場合はこの消化の過程が省略されます。
となると、体内でのアルコールの吸収は、洒を含んだ口腔内でただちに開始されます。しかし、吸収される量は、アルコール分子の大きさに比例するため、口腔内での吸収は飲む酒の濃度によって少々異なります。

また、滞留時間とも比例します。ブランデーやウィスキーなどを飲むときには、舌への快い刺激とともに鼻腔に満たされる芳醇な香りを愉しむ過程がくわわるためやや長めとなりますが、ビールなどの場合にはほとんど一気にのどへとむかいます。

つまり、酒の種類や飲みかたで一定ではないことになるのですが、口腔内で吸収される分量は、平均的にみて酒量の3% 程度といったところです。

食道ではほんの少々。胃では17% 程度を吸収しています。残りの80%ほどは十二指腸・小腸で吸収する、というのが現段階での定説となっています。

小腸はもともと養分の吸収をになっている器官なので、残りの全部はここで吸いあげられて打ちどめとなります。口腔内から小腸までの粘膜から吸収されたあと、アルコールは血管にはいります。めざすゴールは肝臓です。血液はおよそ20秒で体内を1周します。

つまり、吸収されたアルコールもおなじスピドで体内の臓器や組織に到達します。ところで、アルコールにはもうひとつの物理的特性があります。

それは、水に溶けやすいことです。これはブランデーやウィスキーなどの製造時に、いったん高濃度に蒸留した原液を水でもう一度、一定アルコール濃度に薄める過程がとられていることなどからも、容易に理解できるはずです。

この性質は体内でもかわりません。吸収されたアルコールは、まず血液の流れに乗って全身の組織にゆきわたります。とりわけ水分量の多い臓器ほどアルコールを多めに蓄積します。

具体的にいえば、脳、腎臓、肝臓などです。ミクロにみれば、アルコールは全身の血管をめぐつて、最終的には門脈という経路から肝臓にはいります。
肝臓はアルコールの分解工場ともいうべき臓器であり、大部分はここで代謝されることになります。

各臓器や組織にとどまっていた残存アルコールも、いずれは肝臓にむかうことになります。しかし、肝臓にはいって代謝されるアルコール量は、全飲酒量の80%以上とはされているものの、すべてではないのです。

途中、肺で酸素と炭酸ガスが交換される際に呼気(吐く息)にでたり、汗やそのまま尿にかわるからです。飲んだ量の2~10% は、このように肝臓で代謝されずに「漏れていく」と推定されています。当然のことながら、このガス交換によって吐きだされるアルコールが、飲兵衛の吐く息のアルコール臭の最大要因となるのは言うまでもありません。

臭いのもと

ところで、尿以外のルートから体内の水分がでていくことを「不感蒸泄」といいます。不感蒸泄には呼気にでるものと発汗によってでるものがあります。

なぜこのような作用がおこなわれているのかといえば、最大の要因は体温の調節です。体温を一定(体内温は37度である) に保つために、人は無意識のうちにこの不感蒸泄をおこなっています。

われわれの体内で水分にかわる原料は、口から入る液体としてとるものだけではないのです。固形の食べものであっても代謝されたあとのいくらかは水に変化しています。

これを「代謝水」というが、これだけでも食べた量の1割以上を占めています。したがって、この代謝水も不感蒸泄源となります。

アルコールのもつエネルギー量は1g あたり熱量7kcalです。アルコールが肝臓で代謝される量は、体重10kgあたり1時間1gがめやすとなります。

これは体重70kgの人でも1時間あたりわずか7 g程度です。清酒に換算すればたったの1合、ビールなら大瓶1本が、3時間を要する計算です。

しかし、アルコールの熱量が1g あたり熱量7kcalというのは、あくまで計算上のことです。体内で利用される正味は5kcal であって、あとは直接熱源となって体温の上昇作用などをおこなっているのです。

飲むと、このアルコールによる体温の上昇作用も影響します。また、アルコールには血液の流れに乗って血管を通過する際、血管壁を弛緩させて広げる作用もあります。

血管が広がると血流量が増えます。血管が広がれば、体内深部のあたたかい(37度の)血液が大挙して皮膚の表層にでます。

このため、からだが熱くなる。熱くなれば、不感蒸泄作用も活発となります。飲んだときの不感蒸泄のうち、とくに呼気(吐く息)ににおいをもたらしているものの多くは、アルコールが代謝されたあとにでる産物、つまりアセトアルデヒドや酢酸のにおいではないかとにらんでいます。しかしそれだけではなく、代謝されずにそのまま拝発状態となったアルコールや、体内で固形食物からかわった代謝水によるものもくわわっているかもしれません。このため、飲みはじめや早々にきりあげたときなどは、呼気や発汗による不感蒸泄はまだアルコールの血中濃度が高まって、神経系統に麻酔をかけることになります。

つまり酔いがはやまる。「すきっ腹にきく」とよく言われます。悪酔い現象のひとつの原因に、消化管で生じる「乱れ」があります。胃の神経をつかさどっているのは、副交感神経系で、よりこまかくいえば迷走神経がそれをコントロールしています。

脳から出発して胸部、腹部の多くの臓器のうごきをコントロールしている迷走神経は、持ち主の意思ではうごかない自律神経系に属しています。
食事もとらずアルコールだけがはいってきたときには、この神経のはたらきが乱れて、胃を不規則に収縮させます。
いわば神経が驚いて、胃がしゃっくりをおこす状態です。これが嘔吐につながります。吐けば気分もわるくなるのは当然です。。これが悪酔いの原点です。

ところが、最初に、かけつけ3杯などとイッキ飲みまがいの飲みかたをしたときには、吐くことによって気分が持ちなおし、あとはシラフ同然にお酒がすすみます。
一見、魔珂不思議に思えるこのカラクリを説明すると、つぎのようになります。

吐くときにでるものは、当然、胃内にある食べものです。あまりモノを食べずに、つまり胃がカラッポの状態で高濃度のアルコールを流しこむと、じつは胃の出口である幽門が締まって、十二指腸への搬送機能が自動停止します。

つまり、十二指腸に送りこまれるはずのものが、胃でストップしてしまうのです。しかも、それが嘔吐により吐きだされてしまうとなると、その80% を腸で吸収されることになっているアルコールは、胃でわずかに吸収されただけで体外に排出されます。

したがって、この状態ではからだの側は、じつは、ほとんどシラフに近い状態になります。そこで、一度吐いて胃のなかをクリアーにしたあとは、ふたたびスタート台にもどったことになるのです。ひとたび気分がスッキリすれば、「では最初から」ということになり、スイスイ飲めるというわけですが、いずれは2杯が3杯と重ねゆくままに血中濃度は上昇し、飲むピッチもはやまって、かなりの量に到達してしまうのです。

いかんせん、平均的な飲兵衛の場合、24時間での肝臓の代謝能力は純粋アルコール換算で160g程度であって、日本酒なら6合、ウィルキーではボトル半本がリミットです。

ところで、飲んだかたがたの顔は、真っ赤になります。顔が赤くなるのは、直接的にはアルコールのもつ血管拡張作用のためです。アルコールには、あわせて心臓の拍動数を増加させる作用もあります。血管がひらいて心臓のポンプ機能がたかまれば、当然からだの中枢部から熱いままの血潮がドッとでてきます。
それが皮膚表面に広がった末梢血管に反映されます。

一方、酔いがまわるにつれて顔色が青くなる人たちもいますが、これはだいたい、すでに大量のアルコールの常飲によって血管がマヒして広がらなくなったためです。

飲んだあとにおとずれる地獄

では、アルコールをどれだけ飲めば、このような現象があらわれるものなのでしょうか。最初は気分さわやかであり、陽気になる。抑制がとれるにしたがって、体温が上昇する。やがて、気が大きくなり、大声でがなりたてはじめます。そして、千鳥足になります。酒量による個人差を度外視すれば、酔ったときのこのような行動のほとんどは、飲兵衛なら十分ご承知のものばかりでしょう。

立てばふらつく「ほろ酔い極期」あたりで酒杯を伏せられれば、あとに問題を残すことはないのですが、祝宴の場などで往々にして度をすごすことになるのは言うまでもありません。すなわち、吐き気以外の症状があらわれはじめるのです。

おなじことを何度もくり返ししゃべる。呼吸がはやくなる(過呼吸)、まともに立てなくなる、頭がガンガンする、支離滅裂となる…これが悪酔いです。

悪酔いは、おおむね飲んだアルコールの量と比例する。一時に摂取されるアルコール量には限界がありますが、同時に食べる固形物(肴などの副食物)の量にも限界があります。

とくに食べる量が少なかったり、最初の段階から濃度の高い酒を多く飲んだときのほうが悪酔いしやすいことは、言うまでもありません。し

では、二日酔い(宿酔) とはなんでしょうか。かんたんに定義づけておけば、「宿酔とは、飲酒して8~24時間前後にあらわれる頭痛、悪心(きもち悪さ)、嘔吐、腹痛、下痢、頻尿、振戦(手足や全身におよぶふるえ)、心悸冗進(心臓のドキドキ)、過呼吸、発汗、頻脈、血圧降下、その他の「不愉快な自覚症状のでる状態」 のこと」です。

おわかりのとおり、飲んでいる段階から直後にかけてでるのが悪酔いであって、酔いのさめかかった段階ででるのが二日酔いです。

症状には重なるものもあるが、正常な意識をとりもどしつつある後者のほうがおおむねつらいものです。
このような現象のうらには、どんなカラクリが隠されているのでしょうか。ちなみに、この二日酔い現象は、アル中者の「退薬症候群」(禁断症状のでる病態)の原形ともみなされています。

つまり、禁断症状のでる最初の段階は、絶えまのない二日酔い現象からはじまるというわけです。

そのひとつにアセトアルデヒドの問題がある。アルコールの代謝過程は、まずアルコールからアセトアルデヒドにかわります。ついで、アセヽトアルデヒドはアセテート(酢酸)にかえられます。

アルコール→アセトアルデヒド→アセテートと、体内でアルコールが乗って走るのはすべてA列車です。最終のアセテートはあまさずエネルギー源として人体の各所に運ばれます。

鈍行急行いずれであっても終着駅は体内津々浦々の細胞である。細胞にいたってすべてがめでたく水と炭酸ガスに分解されれば、問題は生じません。ところが飲んだ酒の量が肝臓の代謝機能をオーバーしたときには、代謝しきれなかったアセトアルデヒドはそのまま血中にでます。

この血中を泳いでいるアセトアルデヒドがもたらす症状がすなわち二日酔いだとする人も多いのです。この説にしたがえば、二日酔いの原因の第1は、アセトアルデヒドの毒性です。ただし、この説の弱点は、実際に二日酔い症状がつづいている人の血液を調べてみると、この段階ではすでに血中アセトアルデヒド値がかなり低下しているというところです。

ここで、この説をとるかぎり、飲兵衛たちは幻によって復讐されつづけているということになります。

二日酔いの症状は、ある意味で糖尿痛と似たところがあります。飲んだあとでは血糖値が低下しています。そこで、二日酔いとはかるい低血糖状態、つまりインスリン非依存型の糖尿病とおなじではないか、という説もあるのです。た

しかに二日酔いの症状と糖尿病の症状には共通点が多いのもうなづけます。たとえば、糖尿病の典型的な症状でもっとも多いのは、口の渇き( 口渇)です。激しいときは夜間枕元に水を置いておき、たえず飲まないと渇きがおさまらず(多飲)、したがってトイレに通う回数も多くなります(多尿)。

また、全身の疲れや体のだるさ(倦怠感)を訴えるようになります。脱力感や、足のだるさ、こむらがえりを訴えることもあります。もっと症状が進んで「ケトアシドーシス」と呼ばれる病態にいたったときには、頭痛、悪心、嘔吐などの症状もでるでしょう。

しかし、二日酔いの人に糖を与えても症状は改善しません。そこでこの説にも×印をつける専門家が多いのです。二日酔いの状態では、体内で乳酸やアセト酢酸などという有機酸が増えています。

有機酸が増えると体内の血液が酸性にかたむきます(アシドーシスという)。そこで、二日酔い=体内のアシドーシス説も言われています。

しかし、重曹などのようなアルカリ物質を注入してアシドーシスを補正しても、残念ながら二日酔いの症状はとれません。ついでながら、乳酸は疲れた筋肉中で増える物質だが、この物質が血中でも増加がみられるときは、やはりからだも疲れて
つまり、「飲み疲れ」したときには乳酸が増えます。たいていの場合、疲労が回復した翌朝の時点で、乳酸はふたたび糖質(グリコーゲン)にかわっていますが、大酒を飲んだ翌日には、のこった乳酸が二日酔い症状のひとつとしても起こります。

酒を大量に飲むと、トイレに通う回数が増えます。頻繁にトイレに行けば脱水症状をおこします。二日酔いはこの脱水症状が犯人ではないか、という疑いがもたれました。そこで、二日酔いぎみのときには、とにかく水分補給が第1となる。実際にもこれは有効です。
悪酔い、二日酔いを避ける水の飲み方
だが、これはあくまで結果論であって、それを原因説とみなすのはいかがなものか、と考える研究者のほうが多いのです。最近では、アルコール=ホルモン影響説というのもでてきているほどです。

昇圧物質としてよく知られているものにノルアドレナリンという副腎髄質から分泌されるホルモンがあります。ノルアドレナリンの分泌は一般に強い緊張状態(いわゆるストレス)のあるときに高くなります。

このホルモンには細小動脈(毛細血管にいたる直前の動脈)を収縮させるはたらきがあり、それが血圧を上げているのです。アルコール依存患者の尿を調べると、このホルモンの排出量が増えています。

つまり高血圧ぎみになっているのです。アル中者の心悸元進や頻脈などの症状は、降圧剤の投与で消えます。だから二日酔いもそうなのではないか、という説です。

いずれの説もー長一短の感があって決定打にかけます。つまり、人がなぜ二日酔いをするのかというカラクリは、現状ではまだ仮説の域をでていないのです。

なお、大酒家は、急に飲酒をストップすると禁断症状がでることがあります。逆に、二日酔い状態のとき、アルコールの摂取を再開すると症状が軽くなります。いわゆ「〝迎え酒」です。

ただし、なぜきくのか、その理由は二日酔いのカラクリ同様によくわかっていません。およ飲兵衛たるもの、歳ふり酒を修業の経験をつむにしたがって悪酔いの回数が減り、二日酔いの残る日が多くなるようにも思えます。

とはいえ、二日酔い→迎え酒のくり返しがアル中への道程であることだけはたしかです。

二日酔いに特効薬はあるか

では酔いを遅らせたり、二日酔いを防ぐ手だてというものは、現実にあるのかどうかです。生理的法則からすれば、1回に飲む洒の量を、その人にとって代謝可能な開値内でおさえることしかありえないのです。

つまり、少量にとどめるのみということになるが、これはわれわれ飲兵衛にとってなかなかの難事業。となると、それぞれの臓器ででる症状を、いかにかるくするかというテクニカルな対症療法しかありません。

悪酔い二日酔い、いずれの場合でも、飲兵衛にもっともコタえるのが悪心・嘔吐などの胃腸症状です。まず、この間題から考えてみたいと思います。解決策から先にいえば、よく新聞の家庭欄などで紹介されているように、「飲むときには、かならずなにかを食べる」ということです。
それは副食物が胃腸粘膜を保護するためです。しかし、それだけではありません。食べもの(固形物)が吸収されるためには消化の過程が前提となっています。

胃に固形物のある状態では、下へ順送りされる時間が遅くなり、そのぶんだけアルコールの吸収も遅れることになります。つまり、一度に大量のアルコールが吸収されるのを防ぐことに意味があります。

もっともこのテだけでは、結果的に体内に大量のアルコールがはいったときに、いずれ復讐されるという点で、依然として問題は残ります。

そこで、どうせとるのならもっと積極的に、体内でのアルコール代謝を促進するはたらきをするものをとったほうがよいということになります。そのようなアルコール分解の「お助け物質」としてはたらくものもなくはないのです。

それがビタミンです。より正確にいえばビタミンB1・B2、ビタミンC です。ビタミンB2の多い食品には、ヤツメウナギを筆頭に、焼き海苔、レバー、干しシイタケ、魚肉、ハム、メザシの丸干し、サバの塩焼き、チーズがあります。ヤツメウナギはともかく、あとはどれをとっても十分に酒肴となりうるものです。ビタミンCは緑黄色野菜に含有量が多いのが特徴です。

例をあげれば、パセリ、ピーマン、プロッコリ、松菜、はうれん革、カブの葉っぱ、などです。
、ビタミンC( 別名アスコルビン酸)という酵素は、たいていの動物では体内でつくられるのですが、なぜか人、サル、モルモットには体内にその製造工場がありません。このため、人は飲酒時だけでなく、日常の場でも緑黄色野菜果物の摂取が必要不可欠となります。

成人が必要とするビタミンCの1日量は50mgとされています。たかだか柿は1個であって、レモンなら半個強でまにあう量です。。

そこで、飲酒のときには、事前に柿などの果物を食べる、ないしはアルコールや肴にレモン汁を落としてみることも効果的です。

ドリンク剤にビタミンC入りのものが多いのもそのためです。

肉魚に多く含まれる「システイン」という蛋白があります。このシステインには宿酔の元凶のひとつとみなされているアセトアルデヒドの無毒化作用のあることが認められています。

ただし、ものにはほどということもあります。野菜や肉魚ばかりをもりもり食べたところで、二日酔いゼロというところまでにはいかないのは言うまでもありません。

二日酔いの症状には、一見、糖尿病ふう、脱水症状、一見高血圧ふう、動悸、頭痛、立ちくらみみというように、からだの代謝異常や腎臓障害、循環器障害を思わせるようなものが多いのです。ということは、その解消のためには、それぞれの病気治療に類似した「治療」を要することを意味しているのです。

しかし、成人病であるこれらの症状の治療そのものも、現在の医学水準をもってしても、けっして容易ではありません。つまり予防法も同様であって、有効策はないんのです。基本的には、症状のでたあとに、個々の症状にたいする治療、たとえば頭痛に対しては鎮痛剤を服用する、脱水症状なら水分を多くとるなど、それに見あった方法をとるしかありません。

それ以外によくいわれるあのテこのテは、かりにそう信じておこなう人にとってはきくことはあっても、一般論として語られる場合は、すべてウソだといわざるをえないのです。とはいいながらも、古来から知恵者、酒豪でなる人たちが考察した二日酔い退治の方法を考えてみましょう。

何はともあれまず胃袋の薬、胃薬を飲むことです。それから、何か無理してでもいいから、少し食べることです。牛乳を飲むのがいいとされていますが、牛乳をのんでもよし、迎え酒をするのも悪くないのです。現在、私がもっとも尊重している処方は、熱い番茶に梅干しを入れて、すりつぶして飲むことです。

その梅干しも、小梅ではなくて、熟れている大きない梅干しです、それをぐちゃぐちゃすりつぶして、熱い熱い番茶に入れて飲むのです。これは理論的にも適っているんであって、まことによろしい民間療法です。

後はもう一度繰り返すけれど、忍あるのみです。「梅干し療法」がよくきくと推奨していますが、その前提は胃薬を飲むことです。また、きかなかった際、あとは忍の一字あるのみ、とその効用に限界のあることを認めています。残念ながら、万人に通用する民間療法、特効薬のたぐいはない、というところに行き着きます。

血中アルコール漉度が下がらないと危険

酔うという現象は、血中でのアルコールが人の行動を支配している神経系に麻酔をかける作用です。このアルコールの代謝(分解処理)は肝臓でおこなわれます。アルコールがアセトアルデヒドにかわり、アセテート(酢酸)にかわり、最終的に水と炭酸ガスとなれば、もろもろの悪さの原因も消失することになります。

つまり、陶然とするのも悪酔いするのも肝臓のはたらきしだいだということになります。日本人の場合、成人男性で約1.5kg(女性では1.2kg) の重さをもつこの肝臓への血液の搬入経路には、静脈系の門脈と肝動脈の2本のルートがあります。

その他の臓器や細胞から血液(静脈)によって集められてきた物質は、肝細胞にそのまま送りこまれて、からだにとって都合のよいほかの物質に化学的に変換させられます。肝臓への血液搬入の7割は門脈でおこなわれており、心臓から直接血液が供給される動脈系を通らない。アルコールの搬入もこの門脈ルートです。

肝臓の働きとしては糖質→脂質の変換などがその代表的なものですが、同時に有害な物質の解毒化もおこなっており、薬物などのように本来的に体内には存在しない物質もここで代謝されます。

そして、アルコールも当然しかりです。このようなはたらきをもつところから、肝臓はよく体内の「化学工場」にたとえられます。

さて、この化学工場たる肝臓でのアルコールの代謝には、正確には3段階の過程があります。最初はアルコールがアセトアルデヒドにかわるまでのもので、つぎはアセトアルデヒドからアセテート(酢酸)への過程です。そして、最終段階はアセテート が炭酸ガスと水に分解されます。第一段階のアセトアルデヒドにかわる経路には、およそ3つの経路(系)が
あります。

  1. アルコール脱水素酵素(ADH) による代謝系=ADH 系。
  2. これがメインコースです。ふだん1滴も飲まない人の場合もそうですが、一般の飲兵衛の場合でも飲んだ量の8割以上が、このADH系で処理されています。

  3. メオス(MEOS =ミクロゾームエタノール酸化系)という酵素による代謝系。
  4. おもに薬物を処理している系であるが、飲兵衛の場合ADH系で処理しきれなかったものは、このメオスで処理されています。

  5. カタラーゼという過酸化水素を分解する酵素による代謝系。
  6. じつはこの3の系が実際に働いているのかどうかは専門家の間でも議論が分かれており、2、3をまとめて非ADH系とする説もあります。

一般に、飲兵衛では下戸にくらべてバイパスたる2のメオス系が発達している。理由は明快です。飲酒がそこそこの量(つまり肝臓からみての適量)であれば、本流たる1 のアルコール脱水素酵素だけで十分ですが、飲兵衛では分解許容度をこえることが少なくないのです。

こで、ふだんは薬物などの代謝をもっぱらとする2の系が「助っ人」役をひきうけているということです。ただし、どの経路であれ、「アルコール摂取量」「血中アルコール量」「血中でのアルコールの停滞時間」の3者には相関関係があります。

つまり、酔いの深さと持続時間は、各人の代謝系の能力プラス摂取量によって左右されることになります。第二段階のアセトアルデヒドから酢酸への分解過程は、肝臓内でもアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)という別の酵素が受けもっています。

アセトアルデヒドの九割方は肝臓で分解される。また、ALDHのはたらきはADHの分解能力にくらべて4~5倍と強力です。このため、ここで飲兵衛とってひとつの興味ある現象が生じます。

飲みはじめから2軒目へというあたりまでは、「におい」の項でも述べたように、じつは肝臓内ではアルコールがアセトアルデヒドにかわる時間より、アセトアルデヒドから酢酸への分解過程のほうが早いのです。そこで、計算上、このほろ酔い段階では、血中にでるアセトアルデヒドはきわめて低濃度になります。

分解の活発なこの段階では、本人には酔ったという感覚はまずありません。それで、もう1軒行こうか、ということになります。2軒、3軒とハシゴをする過程でじょじょに蓄えられたアルコールが増えてきて、打ちどめないしは寝ようかというあたりから、体内ではALDHがはたらいて、アルコールがアセトアルデヒドにかえられるエ程と、それ以降のアセトアルデヒドから酢酸、酢酸から水と炭酸ガスにいたる処理工程が、やっと順送りとなっていくのです。

そこで、長時間かけて大量に飲んだときや、2軒、3軒とハシゴをしてALDHによる処理がまにあわなくなった状態では、血中アルコール濃度が急激にたかまっていくことになります。

この段階では、千鳥足から支離滅裂な行動などの酔態が出現してくることになります。くり返しになりますが、神経系に麻酔がかかって足をとられてフラつきはじめるのは、アルコールの血中濃度が0.16~0.3%の段階です。

判断力がややにぶるのはもっとまえの0.02~0.04%のほろ酔い段階からです。ほろ酔いの段階では、飲んだ人の多くは中枢神経に麻酔がかかったという自覚はありません。

吐く息のくささもわずかです。まあこの程度ならネズミ捕りにかかるはずないと勘違いします。くわえて、精神が大脳の支配をはずれてへンに高揚しているため、麻酔が知覚運動神経におよんでいるとは思いません。

車に乗る。と、どうなるか。飲酒運転者は、車に乗った時点では頭のネジがはずれているという自覚はほとんどない…となります。

酔うとトイレが近くなるのは

飲酒と切ってもきれないのがトイレが近くなってしまうことです。この生理現象はどのようなカラクリにもとづいているのでしょうか。

人のからだに含まれる水分量の総和は、体重のおよそ6割です。脂肪の多い人や逆に枯れた高齢者ではやや少なめとなるが、それでもその人め水分比率はつねに一定です。
体内での水分比率は、人によって多少の差はあっても、日々の食事量や夜ごとの飲酒量などで、持ち主の意思や勝手都合でかんたんに変動したりはしません。

体内水分のはいる量とでる量はつねに等量で、からだが不要と判断したぶんは、腎臓機能が正常なかぎり自動的に排出されるしくみです。また、水分の排泄機構のほうも、かならずしも尿だけが担っているわけではありません。便で少々、あとは「不感蒸泄」として汗と呼気(吐く息)ででています。

汗をかくほどに大声をだせば、のども渇く理屈でもあります。水分がもっとも多量にでている場所はじつは口です。われわれが日々とっている水分量のうち4分の3までは、なんと呼吸作用に(鼻腔、肺、気道などの潤滑剤として) 使われています。

医者は体内水分のことを「体液」といいます。血液や精液もその一種です。この体液(体内水分)は、細胞膜の内側にある液、つまり「細胞内液」と、それ以外の「細胞外液」の2つの領域に分別されます。体内にある水分の3分の2は生命の基礎単位としての細胞内液で、残りの3分の1が細胞外液という構成です。

この細胞外液量のコントロールに関与するカラクリには、腎臓での血液のうごき、それにからむ神経系(交感神経系)のはたらき、血中および体内随所にある各種のホルモン関与、と3つの要素があります。細胞内液と細胞外液はつねにせわしなく出入りしている。仕掛けのもとは細胞膜の内と外の浸透圧の差です。

また、そのコントロール役をしているのは外液側にあるナトリウムと、内液側にあるカリウム(厳密にいえばそれぞれのイオン濃度)です。ふだん内液と外液は等張(おなじ濃度)に保たれている。ところがときとして濃度に差がある状態になることがあります。

たとえば、暑い日ざしのなかを歩いたり、運動をしたようなときには、だれしも汗をかくでしょう。このようなときには、発汗によって体内の水分量が奪われています。逆に、からだの側では「予期せぬ」水分がはいってくることがあります。まさに飲酒時です。

しかし、生身のからだは凍り豆腐やクサヤの干物ではない。細胞は水分が多すぎても少なすぎても正常な活動ができないのは言うまでもありません。
だからといって、細胞内の水分量を勝手に絞りだすわけにもいかきません。そこで、細胞内の水分が過剰になると、外液の濃度を高くしてよけいなぶんを外液側ににじみださせて、水ぶくれを防ぐ仕掛けとなっています。

いってみればこれが尿の原液となります。この水分の体外排泄メカニズムでは、とりわけ外液側にあるナトリウム(塩分) の濃度と量がポイントとなります。ふだんは高血圧や脳卒中の元凶と、とかく嫌われもののナトリウムですが、こと体内では貴重なはたらき手です。

とにかくこれなくしては水分の体外排出機構が成り立たないからです。生体が正常に機能しているかぎり、体内でのナトリウム濃度はつねに一定に保たれています。

ナトリウムが不足ぎみのときには尿をつくる段階で、腎臓の糸球体という器官が濾過して尿細管できっちりと回収しリサイクルします。体内はすぐれてエコロジカルな構造なのです。
塩気の多いものを食べた場合、よぶんのナトリウムは尿にほうりだしてしまいます。そしておよそ5日もたてば、体内ではちゃんと以前のナトリウム濃度に回復するしくみとなっています。

体液中のpH(アルカリ・酸性度) も水素のイオン濃度によってたえず7.4 と弱アルカリ性に保持されています。ところで、体液のpHが弱アルカリであるところから、アルカリ食品はからだによいという人がいます。そのこと自体は間違っていないのですが、エスカレートして、酒を飲むときにも、アルカリ度の高いもののほうがからだにいい、と早合点する人がいますがこれは間違いです。

しかし、別段、辛口の清酒を飲もうが、ワイン(アルカリ性の洒〉を飲もうが、梅干し(アルカリ性) を肴にしようが、体内でのpHレベル(酸塩基平衡)は不変であって、人体におよぼす影響はまったくないのです。

酔いざめの水のうまさよ

細胞内の水分量を調節している浸透圧は、じつにデリケートな働きをしているのです。1%も変動するとからだが大混乱をおこします。これは、飲みすぎたときの血中アルコール濃度度どころの比ではないのです。浸透圧のはたす役割は、もっと根源的な生命維持とかかわりをもっており、pHレベルはじつにに少数点ナン桁というところで、つねに自動的に微妙にコントロールされているのです。

したがって、ごくわずかな変化が生じても、生命に危険がおよびかねないのです。それはおいておくとしても、たとえ眠っているときであっても、体内ではたえまなくこの調節活動が継続しています。

一例をあげれば、人の細胞総数は60兆個にもおよびます。いわゆる新陳代謝によって、体内では1日に2%の細胞が入れかわっているのです。

ひとくちに2% といっても1兆2千億個です。この結果でてくる老廃物は、尿と便で排出されることになります。これが外的条件で変化させられるケースがでてくるのです。

たとえば、炎天下の街路を汗ダクになって歩いているような場合、当然、からだの皮膚表面では不感蒸泄が活発となるのは当然です。体内からは水分が失われていきます。失われるのは細胞外液の部分です。そこで、しだいに外液は濃縮された状態になって内液と外液の浸透圧に差が生じてきます。放置したままだと浸透圧の差はますます大きくなります。

そこで、その差をなくすために細胞内の水分を放出することになるのです。内液からこれ以上絞りだせないというところまできては、生命が危険です。そこで、細胞にとってこれ以上細胞内からはだせない点、つまり「警戒水域」にはいった段階で、体内随所に張りめぐらされたレセプター(受信器)がすばやくキャッチして大脳に警報をだすのです。

このときセンサー役をはたすのが、大脳の視床下部というところでつくられている「バソプレッシン」(ADH)という抗利尿ホルモンです。
抗利尿ホルモンとは名の示すとおり排尿を妨げるはたらきをするホルモンです。警報受信後にこのホルモンが分泌活動をはじめると、それに連動して腎臓がそれまで体内水分からせっせと絞りだしていた尿の生産をストップさせます。

このとき、バソプレッシシは同時に大脳にたいしても、のどの渇きを示すシグナルを送ります。これが脳に伝達されると、脳内にある口婦中枢というところが刺激されます。その刺激にこたえて、われわれは水を飲みあmす。

とりこまれた水分は細胞外に水分を放出して瀕死状態の細胞内に必要な水分を補給します。体液全体の浸透圧が下がり、細胞内外の液が等張になった時点でバソプレッシンの分泌も低下し、腎臓も尿の濃縮作用を止めます。

これがただの水の場合は、補給された時点で口渇中枢への刺激がとまって、美味しかったなでおしまいです。
では、アルコールの場合だとどうなるのでしょうか。

じつは、酒を飲んでいるときには、抗利尿ホルモンの分泌機能はあまり作動していないのです。頻繁にトイレに行って外液を排出しているにもかかわらず、腎臓での尿の濃縮化(体内水分の再吸収)作用も止まっていることを意味します。

腎臓が水分の再吸収を忘れるのは、アルコールそのものに利尿作用があることも影響します。つまり体内の余計な水分をはやく放出してしまえとアルコールみずからが要求するからです。
だからといって、アルコールに命ぜられるまま放出をつづけていれば、やがては前に二日酔いのくだりでも述べたように、かるい脱水症状につながっていくことにもなります。

そこで、シラフにかえったころには、細胞内では浸透圧が上がった状態がふたたびくり返されるという現象が起こっているのです。ふたたび口渦中枢が刺激されます。この段階では(気分のうえでは二日酔いぎみなこともあって)、たいていの場合、冷水を飲むことになります。

脱水状態での水分補給は、通常の場合に倍してからだが反応する。これが飲兵衛にはおなじみの覚せいの水の味わい、それにつけても「酔いざめの水のうまさよ」となるんです。

ちなみに、腎臓の専門家は、抗利尿ホルモンの分泌をストップさせていれば、毎時1.2Lの水を飲みつづけていても、人体からは同量の水が排泄されると証言しています。

この伝でいえば、体内にアルコールを入れひんばんにトイレに通うケースとは、当然、抗利尿ホルモンの分泌が抑制されている状態だということになります。

かなり手のこんだ話となったが、ようするに体内ではナトリウムが浸透圧を微妙にコントロールしているということがなんとなく理解できれば、とりあえずよしということにしておきたい。ともかくアルコールをとったときのトイレ現象と、酔いざめの水のうまさの関係をかけ足で説明すると以上のような理屈となります。このはたらきをつかさどる最大の臓器は腎臓です。このとおり腎臓のはたらきは巧妙にして精微です。

そこで飲兵衛はすべからく腎臓に感謝、乾杯の義務を負うべきでしょう。また、このようなからだのしくみ、巧まざる「摂理」が、人すべてが備えているホメオスターシス(生体恒常性)なのです。

酒+肴=肥満

話題を、液体から固体つまり「肴」のほうへとかえましょう。では、ものをいっしょに食べながら飲んだときには、どういう事態が生じるのでしょうか。

いったい酒を飲むと、熱量すなわちカロリーはどうなっているのでしょうか。アルコールには1 g あたり7kcal(正確には6.7kcal )の熱量があります。

しかし、肝臓でそのまま熱として燃やされるのはそのおよそ3分の1程度で、あとの3分の2は肝臓外でのエネルギー源にまわされているのです。

酒を飲んだとき、その熱量をからだ全体が利用するのはもっばら後者のほうなので、したがって、アルコールの熱源としての利用効率は正味65%程度ということになります。
残りの35%は、肝臓にたいする税金のようなものと思っておけばいいでしょう。
いずれにせよ、この65%×アルコール量(g)×6.7kcal が、その日の飲酒でとった総カロリー量だということになります。

カロリーではなくて、肝臓の代謝能力からみた場合、平均的な飲兵衛の24時間での上限は、純粋アルコール換算で160 g程度(日本酒なら6合、ウィスキーではボトル半本というところ)です。

その算定基準の根拠は、くり返すように、成人でのアルコールの平均代謝量が体重1 kgあたり一時間0.1gです。したがって、160 gというのは体重65 kgの人での計算です。

これはどんな人にでもあてはまる計算であって、巨漢であれば、物理的にはもっと大飲可能という理屈にもなります。しかし、かりに日本酒6合程度が飲むほうの上限だとしても、飲兵衛の場合には、看でとるカロリーがプラスされます。

ということは、これまた単純計算ではあるが、アルコールの熱量(×65 %)に食べた肴の熱量がプラスされることになります。

あとの具体的な計算は個々の飲兵衛におまかせするとしても、たいていは太る理屈となります。

ところが、これとは反対に、いわゆる「やせの大食い」ないしは、ツルのようにやせた大酒家たちもいます。この人たちはなぜ太らないのでしょうか。

肥満の原因は、カロリーオーバー(摂取量が消費量を上まわる状態)とあわせて、太る因子をもつ細胞の数や大きさなどの性質が関与すると説明されています。

いわゆる体質的なものですが、これはかならずしも先天的なものだけではないのです。人並み以上に飲み食いして、しかも、ふだんあまり運動らしい運動もしてないような人たちがいます。まことに不思議というほかないが、彼らが太らない理由を、まだわたしは知りません。といったところから話を少し軌道調整しましょう。

ものを食べる際の基本は、中学校の教科書でも「からだの血となり肉となり活力のもととなるもの」と書かれているように、糖質、脂質、蛋白質のいわゆる「三大栄養素」です。これらの栄養素は生きていくうえで欠かせぬ要素ですが、体内ではそれぞれ、目的に応じて必要とされる物質に交換しています。

つまり自在に分解、合成をやっているということです。なお、人を含めすべての哺乳類にとって、この三大栄養素の理想とされる熱量摂取比率は、糖質70% 、脂質15% 、蛋白質15 % です。(いうまでもなく、アルコールはそのいずれからも排除されており、ただカロリーを増やすのみの存在です。)。

体内で融通無碍にかたちをかえるからといって、栄養素はひとつだけとっていればすむというわけにはいかなでしょう。

たとえば、糖質の体内での名称はグリコーゲンです。1粒で300 m走るグリコの広告からもわかるように、糖質(および脂質) はもともとがエネルギー源です。ですが、蛋白質だけは別格です。これはからだの構成要素にまわります。したがって、蛋白質だけは1日に体重1 kgあたり1 g弱はとりつづけていないと、からだが壊れてしまいます。

ここで、飲兵衛にもうひとつご注目いただきたい点は、食べものをとった際の、肝臓のアルコール代謝能力との関連です。医学界で報告されるこのたぐいの検証例は、おおむねがネズミを使った実験です。
昔からネズミが米を食う話はあっても、酒盛りや宴会をやるという話は、せいぜいがおむすび転んでジイさんが酔っぱらうというお伽噺程度で、ネズミ=アル中説というのもあまり聞かない話です。そこで、飲兵衛にひとしくあてはまるかどうかは定かではないのですが、食べものには肝臓を元気づけるものもあれば、その道に痛めつけるものもあるという話を一例として提示しておきましょう。

ネズミを元気づけたのはやはり蛋白質です。研究者の実験では、アルコールと同時に高蛋白質を摂取させたネズミは、アルコール脱水素酵素(ADH)系が活性化して、難なくアルコールを分解しました。これにたいして、同様の条件下で低蛋白質を摂取させたネズミは、ADH系の活性がいちじるしく低下したと報告されています。

つまり「悪酔い現象」をおこしたとみなされるわけです。ところが、どちらの群においても、メオス(MEOS=ミクロゾームエタノール酸化) 系の活動を調べてみると、蛋白摂取の多少とは無関係であったという結果がでました。つまり、酒びたりにさせた「アル中ネズミ」のメオス系は、食べものとは無関係にただただ黙々とアルコール代謝に励んでいるわけです。

これらの「アル中ネズミ」をあとで解剖してみると、低蛋白質のネズミのほうがよりつよく「脂肪肝」ようの病変、ないしは「肝細胞周囲の線維化」が見られました。ついで蛋白質のかわりに脂肪をあたえた場合はどうかといえば、これはアルコール代謝とまったく無関係でしたが、酒びたりネズミでみるかぎり、高脂肪食をとらせた群では肝細胞にいちじるしい脂肪化がありました。

すなわちネズミといえども脂肪の含有量の多い食事ばかりしていると脂肪肝になるのだぞ、というのがその筋の研究者の警告です。

そこで、問題の第1は、低蛋白食下でのアルコールの摂取です。このような飲みかたは肝臓本来の代謝機能を低下させて、もっぱらバイパスであるところのメオス系に依存させることになります。問題の第2は、栄養のバランスの失調下でのアルコールの摂取は肝臓障害を促進するという点です。

したがって、洒を飲むときには、つねに蛋白質の豊富な食べものを口にいれながら、そこそこで打ちあげるのが無難だという結論になります。

肴はあぶったイカにとどめをさす

すぐにからだの構成要素にまわされる蛋白質のほかに、人体内ではどうしても合成不可能なものがります。こればかりは外からとらざるをえない、欠くとからだにガタがくる「微量成分」という存在です。

医学や栄養学の世界ではこれを「必須栄養素」といい、目下のところ40余種が知られています。まずは前にもふれたナトリウムやカリウム、それに鉄分やヨードなどの元素類。
リシンやロイシンなどの必須アミノ酸。リノール酸、リノレイン酸などという必須脂肪酸。くわえてビタミン類です。

たいていは必須必須と、テレビ、新聞、雑誌などの広告でおなじみのものです。したがって、からだの都合を優先させれば、先の三大栄養素を含めて、栄養士お定まりのセリフではないが、どうしても「バランスよく栄養のかたよりがないことが望ましいのです。ということになります。とくに生体の浸透圧との関連からいえば、無機質が大切だということになります。

亜鉛不足が味覚音痴をまねくことは周知のとおりですが、いくら必須栄養素とはいえ、人体に必要なのはごく微量です。さほど神経質にならずとも、ふだんふつうの食事をとってさえいれば、ビタミン類も含めてたいていのものは自然にとれるので、無視してもまずさしつかえはないでしょう。

栄養障害によって病気になるのは、いうまでもなく、その摂取量がからだにとっての必要量を下まわったときです。栄養障害にはこまかくいえば「低栄養状態」と「栄養失調」の2つがあるのですが、純粋に栄養障害だけによっておこる病気は、現在の日本ではほとんどみらません。

そこで、しいてアルコール愛好家で問題がおこると考えられるのは、低栄養状態です。低栄養で生じる病的な現象は、くどくどと口うるさく述べてきたように、蛋白質の欠乏とカロリー不足です。

極端に病的なものを専門家は「蛋白質・カロリー栄養失調症」と呼んでいます。飽食ニッポンで、このような失調症がみられるケースはほとんどありません。しかし、病的アル中のかたや食物アレルギーぎみのかたがた(病的偏食者という)では疑われるケースもあります。

洒の飲みすぎによる過剰水分は腎臓の濾過機構によって排泄されます。塩辛い肴を食べた場合や不要の塩分とて同様です。そこで引き算していくと、のこる問題で最大要因は蛋白質の摂取不足だけということになります。

したがって実際に問題が発生するのは、病的アル中のかたと病的偏食者がドッキングしたケースか、それに似たライフスタイルのかたがたということになります。

ついでに、飲兵衛の日常偏食ぎみのかたがたの飲食についてもひとことふれておくと、現在の食生活では蛋白質の代替食は十分です。

そこで、偏食による弊害は赤ん坊や小児では認められても、30をすぎた人間の健康に影響をあたえるほどの弊害はほとんど見あたりません、
現在までのところ、わたしの知るかぎりにおいて「飲酒+過食」の弊害を指摘するものはあっても、肴が貧しくて栄養障害をおこしたという事例は、鳥のエサのような肴だけに頼って大酒する人たちだけです。

ふだん1日3食をとっていれば、まずは心配無用です。あえて「肴」に関連づけていえば、なにを食べようと大丈夫ということになります。気配りすべきポイントは、良質の蛋白を過不足なくとるということだけといいきってもよいでしょう。

良質の蛋白とは脂身の少ない肉、魚。また豆腐などの植物食品でとれる蛋白成分です。

専門家がひとしく推奨する基準は「高蛋白、低脂肪、ビタミン豊富」の3原則です。わたしとしては、カロリーオーバーを防ぐ意味あいから、これに「低カロリー」をつけくわえのがベストです。

油脂の含有量の多い洋風、中華の「料理」は避け、基本的には和風がいいでしょう。それも魚屋よりは乾物屋の品書きに注目するとよいでしょう。

肴は古来からの和食や惣菜、たとえば、冷やっこや湯豆腐、メザシ、小魚、なべもの、あえもののたぐいでよいでしょう。手間ひまかけずとも、できあいのお新香、シラスおろし、あぶったスルメや海苔もまたよしです。

いうなればお晩菜で十分なのであって「多種にして少量」であることにつきるんです。ともあれ、飲兵衛をもって任じられるかたがたは、ALDH ( アセトアルデヒド脱水素酵素)の活動が活発です。よってついつい深酒ともなります。飲む年数が長くなるにしたがって、肝臓のアルコールへの馴れ化機能も上がってしまうのです。

アル中

飲兵衛には避けて通ることの出来ない「アル中」について

ほんの少し酔ったあとの落とし穴

酒を飲むと酔うのは当然です。きわめて当然のなりゆきです。酒を飲むのも、この酔いあってのことといえるでしょう。
まず、この「酔う」という現象から考えてみましょう。

「酒に酔う」連想ゲームよろしく酔いよいことばをかさねていけば、酒はこころをま酔わせる。迫真の演技に酔う。人(込み) に酔う。朋友との語らいに酔う、と際限もなくつづくが、その場面や状態で酔い心地はよくもわるくもなります。

この「酔う″」というこころのありようには、どこかめまいと似ているところがあります。酒にからめとられて目のまわる気分。
いうならば天にも昇るここちから一転して悪酔いや二日酔いの地獄におちいるターン・オーバー・ポイント、じつに一瞬の変化であることは、飲兵衛を自負されるかたがたはほとんど経験ずみのことと思われます。

かし、このような愉しみとしてのめまいが、突如「悪夢」にかわる現象は、洒を飲んだときだけにおこるものではありません。
シラフの状態でもしばしばみられるものです。その代表例は子どもの好きな遊園地での遊具の数です。メリーゴーランドやブランコ遊びにはじまり、ジェットコースターから宇宙遊泳まで、快感としての「めまいの遊び」がズラリそろえられていいます。
が、遊び疲れての帰りの車中で、子どもが車酔いして手こずった人も多いはずです。

からだにはおなじ作用のはずであるにもかかわらず、楽しみと感じるうちはこころが高揚しています。その一点をすぎる、ないしは楽しみと感じるこころがなければ、吐き気をもよおすほどに苦しむことになるのです。

まことに摩訶不思議としかいいようのない現象ですが、その一因は生理学的には平衡感覚の問題にあるのです。

酔いの出発点といえば、当然「ほろ酔い」です。いわゆる1杯機嫌の状態です。少量のアルコールが体内にはいったあとの、身もこころもとろけていくようなあの感じは、飲兵衛にとっては、まことにいいようのない解放感のはじまりです。

疲れがとれる。すなわちそれまで緊張をしいられていた筋肉が弛緩しはじめます。シラフの状態では寡黙、まじめで通っていた方々の口もしだいにほどけてきます。つまり、精神的緊張がほぐれてきます。

からだが温まります。体内に注入されたアルコールがエネルギー源としてはたらくぼかりでなく血管を拡張します。そこで、心臓の機能も活発になり、からだの深いところから37度に温められた血液が、皮膚表面ちかくの末梢血管にむかって一気に駆けのぽってきます。

ちなみに、このほろ酔い状態とは、医学的には「アルコールの血中濃度が0.05~0.25% の段階です。これは日本酒でいえば1~3合、ビール大瓶だと1~3本程度を飲んだ状態になります。う

ほろ酔い、この状態を、古人は「羽化登仙の境」といいました。羽が生えて仙人のごとく空にものぼるここちです。ところが、飲酒の初期段階のこの楽しい状態は、生理的にいえば位置・運動の錯覚現象であって、まぎれもなくめまいの一種です。

酒を飲んだときに体内でどのような現象が生じるのか、かんたんにいえば、アルコールの人体におよぼす作用の本態は「麻酔作用」にあります。酔ったときというのは、からだ(とくに大脳)にかるい麻酔作用がかかった状態と同じだと理解してください。もっと正確にいうと、ほろ酔い状態とは、アルコールの麻酔作用によって、大脳の下部に位蜃する脳幹から脊髄にかけて広範な領域を占めている「網様体」というコントロールセンターの統制がきかなくなる状態のことです。

このような状態では大脳皮質の活動がおさえられます。からだにとってはもっとも原始的なコントロール器官ともいうべき網様体の機能がストップするため、連動して思考や判断力をつかさどっている大脳皮質の機能が正常にはたらかなくなるわけです。

これがほろ酔いの出発点です。つまり、シラフの状態のときは正常に判断し、からだにあれやこれやと指示をあたえている大脳皮質のはたらきにブレーキがかかることになるのです。普段は誠実な人が支払いの段階でグダグタになるなどです。

青くなるのはシラフにもどった状態からであって、網様体、大脳皮質ともども抑制が解除された状態では、心身ともにハイの状態になっています。こうして大脳皮質の活動がおさえられはじめると、抑制はしだいに、全身の運動領域をコントロールしている神経系にも影響がおよんできます。飲むほどに、この麻酔作用も次第に強くなります。

めまいのカラクリ

だいぶ前おきが長くなりましたが、ほろ酔い状態で、麻酔作用が神経系におよび、足と眼に影響があらわれたのが、千鳥足であり、天井がまわりだす現象なのです。

足の神経に影響がでたとき平衡感覚が失調します。これはほぼ同時に眼の神経にも影響してきます。後者の現象のことを医者は「回転性めまい」といいます。

ちなみに、千鳥は左右の足の踏みどころを違えて歩く、その足つきがすなわち千鳥足です。つまり本人はまともに歩いているつもりではあっても、第三者からみると、なんとも危なっかしい足どりということです。

こうなるのは、もちろん足の神経系が乱れるためですが、それに天井がまわる現象があります。つまり眼の神経系の乱れによってもたらされる回転性めまいが加わることによって、あっちにふらふら、こっちにふらふらはさらにきつくなります。

なお、ほろ酔い現象についてさらに度をすごしたときには吐き気(悪心・嘔吐)をもよおすことになります。

この悪心・嘔吐現象は、神経系の乱れにくわえて、アルコールが体内で分解される過程で生じる「不快物質″」が悪さをすることでさらに強くなります。

まず、問題はめまいです。では、この回転性めまいとはなにかですが、この回転性めまいはシラフの状態でもおこることがあります。

本態は酔いなのだが、洒を飲んでいなくとも悪心・嘔吐がおこることがあります。乗り物酔いです。長く乗り物に乗っているときなど、本人の意に反した動きが長くつづくと耳管の前庭機能(三半規管のはたらき)が失調します。

ただし、このような現象は、その乗り物を本人が意のままにうごかしている場合はおこりません。したがって、かたわらに乗せた子どもたちが酔うことはあっても、ドライバー自身が乗り物酔いをおこすことはないのです。

飲んだ状態では乗り物が異なります。飲兵衛が乗るのは自動車のような物理的な乗り物ではなく、本人の意識の内にある「こころの高揚路線」です。

ところで、めまいは平衡失調以外でもさまざまなメカニズムでおこる。浮動感(ふわふわ感)や動揺感(ゆらゆら感)、あたかもエレベーターにでも乗っているかのような昇降感・身体下降感、立っているにもかかわらず、からだがつんのめるような転倒感など、医者が「非回転性のめまい」と呼ぶ一群のめまいがあります。

めまいは運動感覚の異常、位置感覚の異常、その他のもの、に類別されているが、もっとこまかく分けると、自分がまわる(回転感をおぼえる)のが「回転性のめまい」であり、浮動感・動揺感、昇降感・身体下降感、転倒感をおぼえるのが非回転性のめまいです。また、回転性のめまいのことを真性めまい、非回転性のめまいを仮性めまいと呼びます。

いいかたもあります。いずれのめまいであっても、ほとんどはなんらかの病気の兆候でうが、羽化登仙の段階ではこのような病気としてのめまいも少なくありません。

たしかに人が酒を飲むのは酔うためです。病的なうつ状態で飲むときは、精神的な落ちこみもあって、たいていはあまり酔えません。

その理由を説明すると次のようになります。

うつ状態とは、医学的には「極端な気分の低下によって生命活動そのもののエネルギーが失われている状態のこと」だとされています。

うつ病の本態はまだ十分に解明されていないのですが、このような気分や感情に障害のあることを示すうつ状態では、脳内では感情や睡眠に関係する細胞(モノアミン神経細胞)のはたらきの低下とともに、末端の神経から脊髄の神は経細胞を経由して視床下部→大脳皮質へと伝わっていく神経系の回路に破綻が生じていると推定されています。

ひとことでいうと、神経伝達に関与するさまざまな「受け皿」(受容体) が故障したり、回路がショートぎみになっていて、正常な神経機能そのものが作動しなくなっているのです。

肝心の神経伝達がすでに故障ぎみにある状態では、酒を飲んでもそれが精神の「賦括剤」としてはたらいてはくれません。

現象的には逆にシラフ状態でおこっていためまいが解消されることも知られているほどです。だが、このような場合、おおむね悪酔いないしは宿酔( 二日酔い)がのこってしまいます。

うつ状態、ないしはこころの憂さを捨てるために飲むときは、飲むことによって一時得ら一れるはずの快楽が得られず、宿酔地獄に見舞れてしまうということです。

飲むと肴がうまいは嘘

ところで人が酒を飲む楽しみのひとつに、酒の肴があるのは言うまでもありません。では、アルコールと味覚の関係はどうなっているのでしょうか?

酒を飲むと食欲増進作用がはたらくことは、言うまでもありません。事実、アルコールは酒精度8%以下であれば、胃酸の分泌をうながして胃壁も荒らすこともありません。そこで食欲増進剤として利用されることになるのです。

会食に酒がつくのもこのためなら、われわれが日々とっている晩酌も、疲れをいやすことと同時に栄養素の体内へのスムーズな搬入のためでもあるのです。

このことは別の面の弊害もあるのですが、とりあえずその話はおくとして、ここではあまり知られていないアルコールと味覚の作用についてです。

人間には目・耳・鼻・舌・肌の五感があります。生理的感覚(五官)に直せば視覚・聴覚・喚覚・味覚・触覚です。今日では、文明そのものが五感、五官のすべてを衰退させつつあるとの指摘も多くなりました。

ですが、目・耳・鼻の衰えには自覚はあっても、舌の衰えというのはとかく意識しつらい特徴があります。気づかずに、むしろ自分の嗜好ががかわったと思い込んでしまうこともあります。

その自覚があって、人知れず悩まれているかたがたのために助言しておけば、訪れるべき診療科は耳鼻咽喉科です。したがって、先のめまいの話につづいて、味覚のカラクリをとく鍵も耳鼻咽喉科の領域にあります。

耳鼻咽喉科の専門医によれば、味覚異常の悩みをもつ人は案外多く、学会で報告されたところでは年間およそ2万人の受診者があるというのです。しかし、味覚異常の治療が耳鼻咽喉科であることを知らず、内科に行ったり、本人に自覚がなく放置されている者までふくめれば、5万人程度いるのではないかとも推測されています。

内訳を男女で分ければ、男2人に女3人と、じつは女性のほうが多いのです。

味覚音痴が増えている

味覚音痴をうむ原因について、いま先端医学がとらえているのは亜鉛の摂取量不足です。といって、亜鉛そのものを直接とればよいという単純な話ではありません。

にきび、風邪、糖尿病、老化防止まで、現代人が必要とするミネラル「亜鉛」

人の体内には地球上に存在するほとんどの元素が含まれでいます。元素には多く必要なものと微量でよいものがあるのですが、後者のほうを「微量元素」といいます。

亜鉛はそのひとつです。参考までに、おもな微量元素をあげておけば、鉄、ヨウ素、銅、マンガン、亜鉛、コバルト、モリブデン、セレン、クロム、スズ、バナジウム、フッ素、ケイ素、ニッケル、ヒ素、カドミウムなどです。

一見しておわかりのごとく、毒物ではないかと思われるものばかりである。たしかに大量にとればからだが壊れるものばかりですが、きちんととれていないとからだに悪いことも立派に証明されています。

ちなみに、味覚障害の専門家があげる必要亜鉛摂取量は、体重その他、人それぞれ条件はヰ多少異なりますが、1日あたり10~15mg程度という範囲です。

この程度ならふつうに食べていればとれる量ですが、現実にとれていない人が5万人程度いるということは、いまの日本人の食生活がゆがんでいることを証明しています。

では、亜鉛含有量の多い食品とはどんなものでしょうか、これがじっに平凡。例をあげれば、緑茶、カブ・大根の葉っぱ、煮豆・納豆・豆腐などの豆類、白米。

動物性食品でいば牡蠣、レバー、小魚などです。つまり、気どってグルメ噂好の食品をあさるより、われわれ(とりわけ中年族)がアルコールの友とする肴のほうが、味覚の正常化には正解ということになります。

なじみの酒場でつきだし、おふくろの味のたぐいの食菜です。さらには鍋のタネ、ヤキトリのタネ、あわせて、ほろ酔いあとのあの美味なるお茶漬けサラサラもいいでしょう。

肝機能の衰えにも動ぜぬ庶民派の飲兵衛は、出費ささやかにして、はからずも夜ごと「医食同源″」を実践しているというわけです。

ついでながら、味覚については、グルメの元祖ともいうべき『美味礼讃』という古典的名著がある。『美味礼讃』にも人間の五感・五官に対するさまざまな考察がおこなわれているのですが、味覚の中心は舌覚にあるとといています。
ただし、それだけではたりず、頼・口蓋・鼻腔も大切だと記録されています。すなわち、味覚を補佐する喚覚中枢である鼻腔や、唾液、またそれを供給する頼の役割が重要なのです。

あわせて、味覚を倍化させるアルコールのはたらきもお忘れなく、とも述べられています。

しかし、現代医学のとらえかたはもっと精密である。専門医学書には「味覚とは、口腔内に舌面、口蓋部、咽喉頭部の特異的な受容器、すなわち味菅と化学物質の接触によっておこる感覚」のことだと書かれています。ひとくちにいえば、舌や口蓋部(とくに奥のほうのノドボトケのうえあたり)にある専用のセンサーとしての味菅(味細胞) が、味を感じとっているのです。

アルコールが舌をにぶくする

では、この味覚が正常はどの程度までかということを厳密に追求していくと、アルコールという因子をはさんだ場合、思わぬ事態が生じてくるのです。日本酒の等別をきめる際には「利酒」ということがおこなわれます。

洒をきく際には酒を飲んだあと1回ごとに水で口のなかを洗います。水で洗うのは舌の感覚をゼロにするというより、唾液などの影響を排するためです。

じつは、この原理と方法は「味覚音痴」になった人たちにたいしておこなわれる味覚(味膏機能)検査も同じです。

検査時には薄く味をつけた水(試液)が使われ、その味を感じとることができるかどうかが調べます。味覚機能を測るためには、試液の味は薄ければ薄いほどよい理屈となります。

そこで、たとえば塩味をきき分ける際には薄い食塩水を用いますそのあとは利酒と同様に水で口腔内を洗います。その際、正常な感覚者の舌は水を甘く感じたり、ときには酸味や苦味として感じるのです。これが正常なのです。

つまり、水にも味があることになります。

もっと身近な例でいえば、苦いものや酸っぱいものを食べたあとに飲んだ水は甘い味がします。たとえば、砂糖水のようなもので甘味にしばらく舌をならせたあと、水で口腔内を洗う。そのあと薄めのコーヒーなどを飲むと、同濃度のカフェイン真のものを最初に飲んだときより、はるかにつよく感じられます。これは塩味、酸味の味覚検査についても同様で、「交叉増強」といいます。

舌の感覚とは、かくも微妙にできているのです。ここでふたたびアルコールの話にもどりましょう。舌に特定の刺激をあたえつづけていると、しだいに味覚はにぶってきます。

この現象を「順応」というのですが、アルコールをとりつづけている場合、当然、この順応がおこります。しかもアルコールの刺激はかなりつよくなります。そこで、ことにレストランでの会食時などでは、この現象が問題となります。

先の味覚検査のルールからすれば、Aの味のする料理をとる→水を飲む→Aとことなる味の料理をとる→水を飲む… と、くり返していけば、舌の感覚は鋭敏度が高くなっていきます。

しかし、アルコールがはいった場合には、おおむねこうはいきません。料理のでる間隔やその日の心情によって、たいていはアルコール搬入のほうのピッチが上がります。アルコールによる順応が先行して、最終コースにはいったころには、自分がなにを食べているのかわからなくなったりするのです、飲兵衛の場合には通例となりがちです。

したがって、この理屈からすると、料理とともに酒を飲む場合には、本人が美味いと思っているのは舌の感覚ではなくて、多分に心理的なものだということになります。少々つらいところですが、よく飲兵衛がいうところの「飲むと肴が美味くなるのだ」という理屈は、舌のもつ順応の仕組みからすると原理的に成り立ちません。

もっとも、重ねてグルメ元祖の高説を引用すると、彼は「食味に際しては、ゆっくり食するのが「選ばれし者」 つまりグルマンディーズ(美食愛)のこころをもつ者の必須与件である」といいます。

「味覚は順時刺激をうければ、風味幾重にもあることのかぎ分けも可能となりますが、そそくさと食べる者にはグルメの資格なし」と警告しているのです。ただし、からだの理にもかなった託宣というべきであろう。

一気飲みはうまくない

人が酒を飲む最大の理由は、いうまでもなく洒そのものの「うまさ」にあることは間違いありません。しかし、このうまさは一朝一夕にしてわかるというものではなく。よく知られているように味覚には甘味、苦味、酸味、塩味の4味があります。

この舌の味覚領域に関して、科学的な観点から4つのジャンル分けをしたのはへニングというドイツの心理学者で、今世紀はじめのことです。

すなわち、甘味=舌先部、苦味=舌根部、酸味=舌側線部、塩味=舌の中央部を除いて均一というものですが、今は、苦味は舌側線部でも感じていることも確認されています。

洒の味は、説明するまでもなく、原料や酒造法によって微妙に異なります。

たとえばビールは苦味がつよいのが一般的です。ご存じのように幼児は苦味が苦手です。したがって酒を味わうためには、基本的にこの苦味がわかる年齢に達していることが前提となります。

とりあえずは、どこかの時点でアルコール初体験がおこなわれることになるのですが、やっかいなことにアルコールと名のつく液体には「度数」の強弱が伴います。

もちろん初体験者でも、ビールが低濃度でウイスキーが高濃度だというくらいの知識はもっているものの、肝心の体験がないのです。

そこで、好奇心プラス体力への過信もあって、おうおうにして種類や度数を問わず「一気飲み」 というおろかな行動に走ります。
したがって、さめた目でみれば、一気飲みも愚行の一種であることにちがいはないのですが、豪快な飲みっぶりにはそれなりの魅力もあります。

たとえば、日本酒ワンカップ(1合=0.18L)をイッキに飲んだとします。度数15% として計算すると、そのなかには約27 gのアルコールが含まれていることになります。

成人でのアルコールの平均代謝量は、生理学的には体重1kgあたり22時間00.1gとされている。そこで、飲んだ当人の体重をかりに60kgとすると、1時間あたりの代謝量が6gなので、血中アルコール濃度がゼロになるまでには、4.5時間かかることになるのです。

しかし、一気飲みの場合には、短時間に大量の酒が体内に投入されます。結果として、血中アルコール濃度が急カープで上昇します。

酒を飲んだときもっとも問題となるのは、この血中アルコール濃度と体内機能の開値の閾値になります。閾値というのはその人間の許容量(アルコール代謝の限界能力) のことです。この「代謝」が飲酒時のキーワードとなるのです。

この代謝という現象についてですが、人が生命を維持していくためには、外界にある食物や酸素などとの物質交換が絶えまなく必要です。

代謝とは、そのために体内でおこなわれる物質の合成、分解、エネルギーの生産などの化学的反応過程のことをさしています。
俗に「新陳代謝」といわれるが、化学的には「物質代謝」とも言われます。かんたんにいえば、われわれの体内で常時おこなわれている「ひとつの物質が別の物質にかわる作用」のことです。

なお、食べものを摂取したあと、吸収されてから排泄されるまでの過程の化学反応のことを「中間代謝」といいます。アルコール代謝もこれにあたります。

そこで、その人間にどの程度のアルコールの代謝能力が備わっているかという基準が、アルコールの閾値だということになります。吐き気・嘔吐、運動失調をきたすのは、血中アルコール濃度が200mg/dl を超える時点です。300mg/dlを超えると昏睡に陥ります。

体液量(体内の総水分量)に換算していえば、人のからだは0.1~0.2% (平均的な日本人の場合、ビール大瓶換算で3~5本分飲んだ状態)で酩酊状態になります。

泥酔状態とは0.2~0.3% 程度(ビール大瓶換算で6〜8本)で、それ以上濃くなると肝臓での代謝能力はおろか、生命のコントロール機能そのものが維持できなくなるでしょう。

ということは、もともと体内には存在していない物質であるアルコールが「有毒物質」として身を攻めることになるわけです。

これが症状としてあらわれるのが「急性アルコール中毒」です。ひどいケースでは昏睡から死にいたる場合もあります。飲酒体験ゼロの人では、当然のことながらこの閾値が不明です。ゼロかもしれないし、先天的に一斗も辞せずという豪の者かもしれません。

ふつうは、経験をつむにしたがって自分の閾値のなかで、その日その日の上限をきめることになるのです。だから、アルコール未体験者は、代謝能力ゼロとみなしておくのが安全ということになります。

つまり、未体験者のイッキ飲みは愚行と切り捨てるよりありまえん。しかし、ここでわたしが考えたいのは、行動の愚かさのことはおくとして、あくまでこの一気飲みという若者たちの「青春の通過儀礼″」が、はたして酒の美味なる味わいを知ることができるかという点です。

しかし、酒の道には厳然として酒豪と下戸の個人差があって、これにはほとんど逃げ道がありません。ただ苦しい思い出のみの初体験から、以後は酒を断たれた人もいることでしょう。

「吐く」のは上司や世相の悪口ばかり、というところまでなり上がった酒豪の人もいるでしょう。

一気飲みと、飲兵衛がしばしばおこなう迎え酒。飲んでは吐き、吐いてはまた飲んで、こころのトキメキはそのくり返しのなかで生まれるもの、といったところが飲兵衛の道を選択されたかたがたの最大公約数的意見でしょう。

酒豪と下戸の差

ところで、飲兵衛がひとしくあこがれる「酒豪″」というのは、科学的にみればあくまで相対的な概念です。いくら飲兵衛といえども、自分の閾値(飲む量の限界域)を超えれば、やはり二日酔いの運命はまぬがれることはできません。では、この「酒豪度」なるものは存在するのでしょうか。

みずからの所有する肝臓の、その日その日のアルコールの分解能力のパワーによるところが大きいのだと考えています。

この点での世間一般の常識ではどうでしょうか。はたして酒豪の資格とはなにか。どの程度飲めれば酒豪と評されるのか。肝臓専門医たちの取りきめでは、日本酒換算で1日3合以上、少なくとも5年間飲みつづけている飲兵衛のかたがたのことを「常習飲酒家」と呼んでいます。

これが5合以上少なくとも10年以上の飲酒歴をもつ、あるいはもっと短期間であっても同等量飲んだとみなされる人たちの場合は「大酒家」となります。

現実社会には、飲める者(酒豪)と飲めない者(下戸)が存在しますが、この差は体質的な素地、手っとりばやくいえば「飲兵衛」の遺伝子の持ち主であるかどうかできまります。当然、個人差だけでなく、民族差もあります。

アルコールが体内で代謝される化学的な過程には、アルコール( エタノール)→アセトアルデヒド→ 酢酸(アセテート) 1 水と炭酸ガスというプロセスがあります。

とくに問題とされているのはアセトアルデヒド→酢酸の過程です。ちなみに、このアセトアルデヒドは二日酔いの元凶とみなされています。

アセトアルデヒドの分解には、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)という物質が不可欠です。ALDHという酵素は、現在までのところⅠ型からⅣ型までの4つのタイプが見つけられているのだですが、日本人を含めて東洋人の約半数にはⅠ型因子が先天的に欠乏しています。

分解酵素がなければ、アルコールは最終ゴールである水と炭酸ガスにまでたどりつけないのです。当然、からだの側から拒絶反応がおこされてしまいます。Ⅰ型欠乏者(飲むとすぐ真っ赤になる人)とは、すなわち「先天性下戸」です。
こればかりは遺伝子を恨むよりありませんが、日本人ではおよそ4割の人たちが該当します。

アル中の定義

ある人がこう述べています。

自分は本当に酔いたくて飲んだことはあまりない。夕食時に晩酌するのも、酒を飲まないと、料理と一緒に飯を大量に食べてしまうからである。酒に酔う必要に駆られたことは一度もない。酒に酔わなければつきあえないような人間とは、もともとつきあっていない。酒を飲んだための効果というものはまことに信用できない。

(飲んだ) 量、種類、時、飲んだ人間によってたいへん異なる。パトリックという学者などは、酒は精神上の能率を上げるなどと書いているが、われわれが通常酔った人間の上に見るのはこれと正反対のものだ。政府の調査では、疲労回復の目的で飲む者が四六パーセントだったそうだが、前夜酒を飲んだと称している人間を観察した場合、そこに見られるのはたいてい疲労の色である。

人は百人百様です。飲兵衛の方々からはいささかの反論もあろうかと思いますが、ご自身の経験をふまえてのこの観察には、当を得たところがあるとうなずかれるかたも多いと思われます。

飲兵衛と目される人にも、常習飲酒家と大酒家のちがいがあるのですが、しかし、酒嫌いの人たちからみれば、どちらであっても「アル中」にみえるかもしれません。

事実、世間一般に用いられる「アル中」とは、常習飲酒家、大酒家の別なく高度の飲酒家をさして用いられることばではあるのです。もっとも、医学的な正確さにこだわっていうと、アル中とは、いわば「一気飲み」のような「急性アルコール中毒」の略称であって、アルコールを常飲する者におこる異常や障害は「アルコール(依存)症」です。

「急性アルコール中毒」と「アルコール依存症」の病態のちがいについてはここでは省略しますが、ここではまず、世間一般に用いられている「アル中」(アルコール依存症) の問題を考えてみましょう。

嘘が通用しないアルコールテスト

アル中者は、医学的概念でとらえるより、むしろ社会的概念としてとらえるべきではないかとの意見をしばしば見うけます。
アルコールヘの依存性を量的な観点より、その人の社会的適応性の面で判断するほうがより妥当ではないかとする考えかたであって、この論議はしばしば新聞の文化欄などをにぎわしています。

その論議は、おおむね、つぎのような「社会観察」がベースとなっています。

夜な夜な鯨飲する、というより飲むことこそわが生きがい(とみえる)職業人は意外に多いのです。一見、飲酒の合間に仕事をしているような人は、けっして少なくはないのです。

ことに画家や作家など創作的な活動に従事している人たちには、アルコール愛好家が多数います。このような飲兵衛の良質な部分まで含めてアル中と呼ぶのはへンではないでしょうか。

むしろ、酒量わずかといえども、宿酔を理由に3日とあけずグータラ欠勤をきめこむ連中のほうをアル中と呼ぶべきではないでしょうか。

たしかに、もっともな話ではあります。ポイントは飲む人にとっての「依存」の程度問題だということになります。医学的見かたからすれば、行きつくところまでいった人が「アルコール依存症」だということになるのですが、この種の論議では、その核心となるはずの「依存」の本態にはあまりふれられていないようにも見うけられます。

では、日常生活のなかでどの程度まで飲んでいる人を「アル中」というのでしょうか。とりあえず、世間一般の基準というより、専門的に解析している研究機関での例を紹介します。

アルコール症についての研究と治療の場として名高い、神奈川県久里浜市の国立療養所久里浜病院でつくられた「アル中度」を測るテストに、「久里浜式アルコール・スタリーニング・テスト」という自己診断テストがあります。

一般的には「KAST」という略称で知られています。かんたんなテストです「異常」の自覚の有無は、過去6ヶ月間の行動です。

まず、対人関係の円滑度が問われます。飲むことに対する自己規制のきもちのありなしが問われます。他人からの非難の有無が問われます。酔態が問われます。飲酒翌日の記憶が問われます。
休日の飲酒パターンが問われます。仕事への影響が問われます。関連する病気の診断や治療の有無が問われます。飲んだ際の異常の有無が問われます。寝酒の有無が問われます。仕事と飲酒のかかわりが問われます。日々の酒量が問われて、警察にやっかいになったかどうかが問われます。そして、酔うと怒りっぽくなるかどうか問われます。見てわかるようにこれら14の質問は、飲兵衛が心情的に(も本能的にも)イヤがるものばかりであす。

採点は減点法でおこなわれます。マイナスに傾けば正常。プラス点が多いほどアルコールに対する依存度が高いことになります。
プラスの点が高いのはおおむね対人関係です。自宅や休日の行動、つまり自分だけの世界でへベレケになっていても、他人に迷惑をおよぼさなければアル中指数は低いことになります。この点からすると、.「KAST」では、アル中者を社会的概念としてとらえようという姿勢がつよいことがわかります。

ところで、アルコール依存症についての啓蒙書の多くには、先に紹介した「KAST 」を本人で試した場合には多くの者がウソをつくため、このテストはかならず当人ではなく、家族が記入しなければならないと書かれています(じつに痛いところをつくものである)。

はたして、ほんとうにウソをついているのでしょうか。・たとえば「KAST の質問項目にもあるように、われわれの生活には「商売や仕事上の必要で飲む」ことが少なくありません。このような場で飲むとき、相手に対するおもんぱかりもあって、まったくの下戸でないかぎり、たいていは自分も多少はいける顔をするのが一般的です。

また、この程度ならまだ酔わないはずだと思いながら杯を重ねていくのが、仕事上の必要で飲むときの常です。場が移るにしたがって、いつしか緊張のタガもゆるんでくるのが自然です。

すなわちアルコールの麻酔作用がすすむということです。それだけにとどまらず、やがては悪酔い、宿酔の憂きめをみる人たちが少なくないのです。

ならば、もうつきあい酒は絶対やめますか、と問われて、ハイとこたえられるものでは決してありません。とくにつきあい酒は相手あっての飲酒の場です。
当然お互いが相手の限界までつきあおうということになります。さまざまなしがらみから、わかってはいてもやめられないというのがつきあい酒のつらいところでもあります。

このような場が、酒豪をつくりだす一方で、自覚されざるアル中をつくりだすひとつの基盤ともなります。

アル中者を社会的概念としてとらえる見かたに関連してもうひとつ、国民のアルコール問題に対する厚生省の考えかたも紹介しておきましょう。

厚生省の考えでは、まず飲酒を労働災害や生産性低下などの産業の問題、交通事故や犯罪、家庭の崩壊などの社会問題としてとらえます。

ついで、未成年者の飲酒、妊婦の飲酒、キッチンドリンカー、高齢者の飲酒などの社会問題です。国家的見地からすれば、飲兵衛の問題とは、第一に産業的、社会的な問題となるわけです。そこで、「アルコール関連問題」対策の項をみても、これらの問題解消が先に立つのは言うまでもありません。

たとえば、「一般国民に対しては、健康で豊かな生活を送れるよう、アルコール飲料に関する正しい知識と適正飲酒の教育をおこなう」ことが必要であり、「大量飲酒者に対しては、アルコール関連障害の発生を予防するために、健康に有害とならない適正飲酒の実行を指導する」こと、また「アルコール依存症者や回復途上者に対しては、必要な治療を供給するとともに断酒継続のために「断酒会」等の自助グループの育成をおこなう」ことになります。

もっと強くいうと、「一次予防の観点から適正飲酒の普及と、これにくわえて、二次予防の観点から、問題飲酒者の早期発見と初期介入にも重点がおかれてきている」のです。

なお、同書の分類によれば、飲酒者とは「一般国民」「大量飲酒者」「アルコール依存症者及びその家族」および「回復途上者等」という別に分けられています。「大量飲酒者」群とは、1日のアルコール量150ml(日本酒換算で5合半、ビール6本、ウィスキーダブル6杯)以上とる人のことだとされています。

一般的にはこのあたりがアル中の量的な基準といったところになると思います。ちなみに、統計的に示されている大量飲酒者は、平成元年時点で210万人ほど存在します。また、入院治療を受けたアルコール症の患者は推定でおよそ2万人程度です。
差し引き200万人は肉体的、精神的なアルコール依存の自覚ももたずに、日々飲酒をつづける人たちだということになります。
前の「KAST」の基準と重ねあわせれば、「大量飲酒者」であっても、問題飲酒者でなければ、まあアル中とみなすことはよそう、ということになります。
しかし、「KAST 」で確実に高点をとることが予測されるかたがた、つまり異常行動の自覚の高い人はおくとしても、一般にやや速断にすぎるといわれるかもしれませんが、れたしだけでなく、 多くの飲兵衛を自負されるかたがたには、自分がふだんの飲酒時に異常行動をとっているという自覚はあまりないのが一般的です。

アル中の前提条件

「依存」にはつねに2つの面があります。身体的な側面と精神的な側面です。身体的な依存とは、アルコールに限定すれば、理由のあるなしにかかわらず、とにかく毎日飲みつづける人たちのようなケースです。

それも大量に飲酒しなければ、からだが納得しないという状態になっている場合です。むしろ、飲んだときのほうが本人の活動力が高まると本人は思っています。

したがって、仕事中に飲むこともあり、飲みながら仕事をする人もでてくることになります。精神的な依存とは、飲む、飲まないにかかわらず、飲みたいというきもちだけは四六時中つつくような状態です。そこには明確な意識のはたらきがある。精神的な「禁断症状」といってもよいでしょう。

どちらの場合も酒を飲むことによって、その症状は一時的にはおさまる。したがって、一見、どちらもおなじではないかというようにもみえてしまいます。もちろん、盾のうらおもてのような関係にあることは事実なのですが、アル中を「社会的概念」としてとらえようという立場からは、精神的な依存からとらえようとします。

それは、酒への精神的な依存度の高い人のほうが、社会生活をいとなむうえでより困難をきたしやすいとみなされているためです。とすると、酒を飲むまえの分析をおこなわずに、飲んだあとの行動の逸脱のみをうんぬんすることには、どうしても無理が生じるような気がするのです。

であれば、アル中(アルコール依存症患者)とはなにかということを考える場合にも、まず酒を飲む分析からはじめることのほうが妥当なのではと考えます。

いうまでもなく、飲んで酔う人のすべてが依存症(アル中) におちいるというわけではありません。大量に飲んだ人の50%は、翌朝に疲労の色がのこります。二日酔いにもなります。

だから、飲酒行為を短期的にとらえた場合には、依存におちいる前に、たいていの人はからだがダウンして、そこまでいかないのです。

洒を愛する多くのかたがたが、いかにすれば自分のからだを壊さずに、しかも社会的摩擦をおこさずにすむかを、ともに考えていきたいというのが基本姿勢です。

ここで、まずわたしが考えたいことは世間一般にいわれるような「アル中」の前提条件とは、具体的にいうとどんなことなのかということです。

つまり、人によっては、わずかな酒量であっても二日酔いをおこしたり、世のひんしゅくを買ってしまうような行動をするのはなぜか、という点です。さらに、もっとつきつめれば、人は量的にどこまで飲むことが可能なのか。そして、どの程度飲めば「異常」な行動をするようになるのでしょうか。

また、その原点はなにかということでもあるのです。アルコールは肝臓で代謝されたのち最終的には水と炭酸ガスになります。アルコールはただのろか水とはちがって血管内に入る速度もはやく、腎臓で濾過されて尿にかわる速度も早いのです。

肝臓、腎臓いずれも身の内の器官であって、それぞれの臓器にはおのずと能力の限界があります。その上限をこえ肝臓での代謝能力をオーバーすれば、体内には分解されないままのアルコールがあふれだすのは当然です。

これが血中のアルコール濃度の上昇である。この理屈を無視して飲みつっければ、一気飲みの例でみたように、最終的には泥酔→昏睡というコースをたどります。
したがって、ふだんからその人に許容された開値を超えてまで飲みつづける癖をもつ人たちは、やはり「アル中」というほかはなくなります。

快楽に導くモルヒネとは

そこで、ふたたび問題は、人が酒を飲んで酔うのはなぜかという原点にかえることになります。酒を飲んだときに、人の体内で生じるこの「酔う」という幻妙な変化は、どんな化学的法則によってもたらされているのでしょうか。酔うと精神が高揚する。この現象です。

かつて薬理学者の間で、この酔いの根源をめぐつて、これをアルコールによる興奮作用としてとらえるべきか、はたまた神経の麻酔作用としてとらえるべきか、との論争があったそうです。

飲むと酔う。大量に飲んだときには神経がマヒしてしまう。このため、たとえば少々の打撲を受けてもその当初は痛みを感じないのです。

であれば、アルコールの神経に対する作用は麻酔作用だということになります。しかし、少量の場合はどうでしょうか?ほとんんどの飲兵衛がそうであるように愉快になります。そしてはしやぎ騒ぎます。これは明らかに麻酔というより興奮作用としてとらえられるものです。

ですが、結果的には、この論争は「麻酔の作用である」ということになりました。麻酔剤は大量に使えば名のとおり麻酔剤ですが、少量ではかるい興奮をもたらすためです。この興奮→麻酔は、いずれもアルコールの大脳皮質への刺激作用です。そこで、大脳皮質のはたらきを考えると、ここは人の意識や行動のすぺてをコントロールしているところです。

もう少し詳細に言うと、からだに対する刺激は、じかに大脳皮質に伝えられるのではなくて、その下部にある「網様体」というところを中継しておこなわれているのです。

網様体とは、脳幹(中脳)から脊髄にかけて網目状に存在する感覚の調節中枢です。アルコールの摂取は、この網様体の機能を低下させるのです。

この機能が低下すれば、大脳皮質に伝えられるはずの各種の刺激は、当然のことながらうまく伝わらなくなります。というより、網様体本来の役目である調節作用のタガがゆるくなるため、大脳皮質はかるいマヒ状態となります。

ひとくちに大脳皮質といっても、さまざまな皮質があります。日常の記憶や行動の判断をおこなっているのはもっばら「新皮質」と呼ばれる部分です。

飲んだときには、ここにマヒがかかる。すると、それまで新皮質によっておさえられていた大脳辺緑系の抑制がとれます。大脳辺緑系の部分は、本能をつかさどる部分です。

人が社会生活をいとなむ際には解放された状態では不都合なことが多いため、ふだんは抑制されているのです。アルコールの摂取は、一過性にこの大脳辺緑系の抑制を開放してしまいます。そこで、見た目には精神が解放されたような現象がおこることになるのです。

余談ですが、痴呆症でも類似した現象がおこります。痴呆症の場合は、新皮質の神経細胞が破壊されるために一種の先祖がえりに似た異常行動をとるのですが、ただし、これは一過性ではありません。

いずれにせよ、アルコールの摂取による初期の段階でみられる「1杯機嫌」の状態とは、網様体の機能低下によって大脳新皮質のはたらきがマヒし、大脳辺縁系の動物的部分が顔をだす状態なのです。

アルコールの麻酔作用がもっとすすむと、やがては大脳辺縁系のうちの旧皮質だけでなく古皮質といわれる部位にまでおよびます。
すると、感情の抑制解除だけでなく、それが行動面にもあらわれることになります。これがすなわち泣き上戸、怒り上戸の出現となるのです。
酔いがもっとすすむと、アルコールの麻酔作用は大脳皮質のうち、運動野(領域) をコントロールしている部分や小脳にまでおよぶことになります。つまり、運動神経にまで麻酔がかかった状態となって、千鳥足が出現することになるわけであす。

かんたんにいえば、アルコールをとったときには、その麻酔作用がアタマにくるというのが酔いの本態です。最近の説で感情面の変化についてもう少し補強しておけば、酔った際には、脳内に「エンドルフィン」という一種のアミノ酸が分泌されていることも確認されています。このエンドルフィンは別名「内なるモルヒネ」ともいわれるほど、強力な鎮痛作用とともに多幸感をもたらすモルヒネそっくりの作用をもつ「快楽物質」です。そこで、エンドルフィンの分泌によっても、こころがハイになる。エンドルフィンの分泌がたかまったところでストップできれば、まず問題は生じないのです。

しかし、飲んだときの多幸感を追い求めるあまり、際限なく飲みつづければ、やがてはアルコール依存の事はじめとなります。したがって、平均的な飲兵衛ではほろ酔い気分まででとどめるのが上策ということになります。

ホームレス=アル中

では、結論的に「アル中」とはなんでしょうか。くり返しますが、医学用語上での「急性アルコール中毒」のことではなく、ここではあくまでも一般に使われる「習慣性通年性アルコール多飲症」あるいは「喜びも悲しみも酒々依存症候群」の患者としての話です。

人はシラフでも百人百様です。当然、飲兵衛にも百態の個性があります。まずあらわれるのは、ご存じのとおりストレスや緊張がほどけたあとの意識下の感情です。

感情がたかぶれば自分の年を忘れ、使いなれぬ腕力をふるってホゾをかんだりする場合もあるでしょう。このようなジキル博士変じてハイド氏になる現象は、たいていの飲兵衛が一度や二度は経験ずみでしょう。

話はいささか飛躍しますが、飲酒が身をほろぼしているかにみえる一群の人たちがいます。昼間夜間にかかわらず駅構内や公園で酔ってタグをまいているホームレスです。この人たちの酔態に、アル中者像のひとつのイメージをもつかたがたもいるでしょう。

そこで、この人たちと、まだ家族やその他との社会的つながりをもっている大量飲酒家(KAST高点者)の体内生理を比較してみましょう。
じつは、ここにはふだんの食生活からくる大きなちがいがみられます。かりに、酔ってクダをまいているホームレスたちが、さしたる食べものもとらず、つねに低栄養状態にあるとすれば、外見にはいくつかの特徴が生じるでしょう。

栄養物の摂取量が減少すると、体内で真っ先に消費されるのは蓄積されている脂肪分です。備蓄が底をつけば、もともと体内に備蓄分のない蛋白まで消費されることになります。このため、皮下脂肪や筋肉の蛋白がうしなわれ、骨格がうきでて、眼のまわりも落ちくぼんでしまいます。

皮膚は薄くなり、乾燥してつやがうしなわれます。筋肉はやせほそり、外見上は全体的に弛緩した印象になります。医学的にはこれを「るいそう」(皮下脂肪の顕著な減少)と表現します。

見た目にはただの透明な液体とはいえ、アルコールは1gで7kcal の熱量をもち、脂肪に次ぐ高熱量食品です。したがって、そこそこに飲酒していれば、生命を維持するうえで必要な最低カロリーだけはなんとか摂取できるのです。

しかし、このような状態がつづくと、生理学的には「細胞外液」と呼ばれる体内水分が増加してきます。いわば「水ぶくれ」の状態です。そして、全身にむくみ(浮腫)がでます。

つまり、栄養不足でやせているにもかかわらずスマートというにはほど遠く、身体全体が膨らんでいる印象になるのです。体内では、ほかに血圧や体温の低下、貧血などの症状があらわれることもありますが、これは外見からははっきりしません。
やや乱暴ないいかたになりますが、生理的には飢餓状態のようなものなのです。この状態におかれた人たちは、過度の栄養障害の影響で神経系が過敏になっています。

たとえば手足やくびなどがピタピタとけいれんします。人格に変化がおこり、注意が散漫となり、精神が不穏となります。ささいなことで口論をふっかけたり、ヒステリー症状をおこしたりします。

これらの行動は一見アル中のような行動を示すものの、経済状態から考えてもそれほど大量に飲んでいるとは思えません。つまり、ホームレスたちはアル中と呼ばれるほどには飲んでいないことになるのです。

ホームレスたちとちがって、「アル中行動」を示す大酒飲みの場合には、家族や社会とのきずながそこなわれていないかぎり、まがりなりにも1日に2~3食はとっていると考えられます。
つまり、からだが必要とする最低限度の栄養素と量はとれているとみなすほうが自然です。

もっとも、飲むばかりできちんと食事をとらない飲兵衛や、ホームレスたちに似かよったライフスタイルの人であれば、つまり飲酒が仕事外時間だけにとどまらず、四六時中アルコールを主エネルギー源とし、副食物としてはもっばら鳥の餌ようのものだけをつついていれば話は別ですが。しかし、ホームレスの行動には、イメージするアル中とダブる部分がなくもないのです。

たとえば、注意が散漫、精神が不穏などの人格の変化、すなわち神経系が過敏となる現象です。酒肴にはもっばら鳥の餌ようのものだけを食べる癖をもち、日々の必要栄養素のインプット量がアウトプット量を下まわることをうかがわせるかたがたも同様です。

これらの異常が行動にあらわれる典型が、すなわち「酒乱」です。一般にアル中と呼ばれるのはこのような人たちでもあるのです。

ストレスが酒乱をつくる

酒乱とは、飲んだときにとる言動が社会的な許容限度をはみだす人たちのことです。意識の乱れとともに行動の乱れがあります。
乱れの大本は、前に述べたように大量のアルコール摂取によって網様体の機能が低下し、大脳皮質がコントロールをうしなうことです。

では、なぜ社会的な許容度をこえてまで乱れるのでしょうか。シラフであっても、われわれの日常生活や精神病理の世界のなかには、酒乱を生みだす要因がひそんでいるのでしょうか。

その要因のひとつは、ほかならぬわれわれ自身が酒杯を手にする理由づけに多い「ストレス」のカラクリになります。ストレスとは、不安、緊張、うっぶん、不和、煩悶、その他もろもろ、この地上すべての事物が発生源となって襲いかかる心理的負担のことです。その原因はメンタルなものだけでなく、暑さ寒さ、騒音、けが、アレルギー、絶食、筋肉労働、感染、ビタミン不足などさまざまにあります。

医学的定義にしたがえば、ストレスとは「もろもろの外圧に抗してからだが懸命に支えようとするけなげな防御反応」のことです。外から刺激があたえられたとき、からだの恒常性( ホメオスターシスという) は一次的に乱されます。乱されたところはねじ曲がります。

当然、からだの側では乱れを修復しょうと機能します。この一連のはたらきがストレスです。いうなれば、ストレスとはからだを介しての外部と内部の摩擦過程そのもののことなのです。

ストレスには3つの段階があります。第一期を「警告反応期」。医学的には下垂体=副腎皮質系が活動を始める初期段階のことをさすのですが、これはさらに「ショック相」と「反ショック相」の2つに分かれます。

ショック相というのは、からだがショックを感じて反撃を開始する時期のことです。最初は体温の低下や低血圧などにくわえて、たとえば無力感、無気力におちいるなどの精神活動の低下や、グッタリしたり、けだるさを感じるような筋肉の緊張の減退などがおこります。

ショック相はやがて反ショック相に移行します。からだはショックから立ちなおり、ショック相とは逆の変化が生じます。体温や血圧が高くなり、神経や筋肉の活動も活発となります。いうなれば、からだの側が「反転攻撃」に移る段階です。

いやなものにたいしてはだれだって攻撃的になる理屈です。このからだが反転攻撃に移った段階が「抵抗期」と呼ばれる第二期となります。

ストレスが長期化するにしたがい反転攻撃が継続します。ならばストレスに打ちかってやろうと、からだがけなげにも抵抗する時期といってもよいでしょう。

第三期は「疲はい期」。文字どおり疲労困憊の状態です。からだの側がストレスとの葛藤に疲れてついにギブアップする段階で、この段階を放置しておくと病気になってしまいます。

しかし、第二期にみるように、人の体内には「外圧」に対抗する機構がそなわっている。要はつねに外からの圧力を体内の反発力が上まわっていればよいわけで、そんなストレスにうちかつ生体の抵抗力のことを、ハンス・セリエという学者が「交差性抵抗」と名づけました。

交差性抵抗とは、自分で訓練してストレスにたちむかう、かつての日本人が好きだった〝「○○道」に類する精神修業、たとえば昔からおこなわれてきた僧職者や山伏その他の荒業、あるいはヨガなどを含めた心身鍛練法、自律訓練法などです。

もちろんそのうちには、アルコールの力を借りてのうっぶん発散法もはいります。しかし、かんじんなのは、この交差性抵抗は「あるストレス要因にたいする抵抗力は増しても、ほかのストレス要因にたいする抵抗力をうしなう」というあい反する現象もあわせもちます。。

この交差性抵抗現象を、飲兵衛のこころとからだにおきかえれば、飲むことによって一面ではたしかにストレス発散(第二期)をしているものの、量的なエスカレーションにともなって、同時に第三期(疲はい期) にまで突入している状態とは言えないでしょうか?

こころの病んだあらわれが、すなわち酒に飲まれての「乱れ」現象をもたらす元凶ともなっているような気がするのです。

いいかえれば、酒乱にいたる人たちが日々大量に飲酒する心情のうらには、もろもろのストレスにかちたいと切にねがうこころの「反乱」があるように思えます。

飲んだときの脳はこのような状態です。

お酒

はじめに…お酒の歴史と飲兵衛について

酒の楽しみは飲兵衛にしかわからない

酒を飲む理由

「なぜお酒を飲むのか?」こう聞かれたとき、こたえは、それぞれのおかれた立場や心情で千差万別です。

たとえば、酒造会社の営業マンなら「おサケの歴史は、古来よりプロの女性の職業とならんで」と、その場でいきなり文化論を始めるかもしれないし、酒豪でなる文学者なら「創造の根源」とひとことですますかもしれません。

また、国税庁の役人なら「多額の間接税を支払うことによって国家に貢献するため」というかもしれないし、医者、とりわけ精神科医や内科医なら「これがじつにこまった存在でして…」と、いちおう( もったいぶって)まゆをひそめたりするかもしれません。

しかし、純粋に飲んで楽しむほうの立場、つまり、飲兵衛を自負されるかたがたではどうでしょうか。なにをいまさら!と笑いとばされるのがオチかもしれないですが、あらたまって聞かれると、さて、と考えこんでしまうのが、われわれ一般の正直なきもちなのではないでしょうか。

わたし自身もお酒大好き人間のひとりです。初体験は5歳ころ。成人式をすませたあとの30年間にかぎっても、まったく飲まなかった日々を数えあげると、辛か不幸か両手の指を最後まで折らずにすんでしまいます。とはいえ、わが肝臓に感謝しつつも、なんのために飲んでいるのかと問われると、やはりまごついてしまうのが正直なところです。

人が洒を飲むのはなんのためでしょうか?
たかがアルコール、されどアルコール。アルコールと化学式で記述されるアルコールを飲んで酔うという現象、考えれば考えるほど、われわれ飲兵衛族の生理、心理、情動に深く根ざすところがあるようです。

お酒は百薬の長か?

人が楽しみを得るためには、なにかの行為をおこなわなければなりません。楽しみは、つねにその行為の結果として得られる結果です。

これはスポーツや読書などだけでなく、食事やセックス、はてはお金もうけから深遠な思索にいたるまで、オーバーにいえばあらゆる人間行動に共通します。この原理にあてはめると、人が酒を飲む理由は、なんでしょうか。もちろん、いうまでもなく、飲兵衛の大半は「酒がうまい」からです。

杯をかさねるにつれて、からだもこころもしだいに心地よくなっていく楽しさは、だれもが共有するところ、といえるでしょう。とすると、この酔いの楽しさを求めるために、人は酒を飲むのではないでしょうか。

飲兵衛にとって飲酒とはじつにこころがおどる行為です。しかし、興がすぎてハメをはずすと、からだのコンディションも含めて、日常生活でトラブルや摩擦をおこしてしまうのも事実です。

ほとんどの人が経験するところですが、だからといって「禁酒しよう!」とは考えません。むしろ、その行為によって生じた多くの「失敗」や「苦しみ」は、いつしか忘却のかなたに消え、「つい気がつくとまた、酒杯を手にしている」という人たちのほうが多数派です。

また、そのようなこともあって、飲兵衛たちは、飲む際にだいたいいいわけをします。つまり飲む理由をさがす。理由がなければ「それもまためでたきこと」と、これまた酒杯をあげる立派な理由とします。

つまり、この過程を無反省にくり返しているあいだは、人はなぜ酔いたがるかという根源的な疑問には回答が得られないことになります。

ところで、飲兵衛の好むお題目のベスト・ワンといえば、まず「酒は百薬の長」です。だれでも知っているこの「名言」を吐いたのは、いまから2千年ほどまえ、中国前漢王朝の王莽という人です。

みずからが建てた「新」王朝の租税源として塩、酒、鉄の専売化をねらって、と述べたのがそのルーツです。

年月が経過するにしたがって、なぜか前後のフレーズが落ちてしまったのです。中国文化が伝承されて以来、このことばは、わが国の飲兵衛知識人、文化人のいいわけとなってしまったのです。

この「百薬の長」という表現には、意識するしないにかかわらず、飲みてのからだの側への反映があります。「(建前としては) あまり飲みたくもないのだが、なにしろからだにとってたいへんよいものだから、やむなく…」という理由づけです。

これはコジツケです! と、たいていの飲まない人たちは考えるでしょう。それなら「百薬の長」であることは医学的に証明できないものでしょうか。

養生訓読 の「酒」の条には、こう述べられています。

酒は天の美録なり。少し飲めば陽気を助け、血気を和らげ、食気をめぐらし、愁いを去り、興を発して、甚だ人に益ありと。

すなわち、アルコールは少量であれば気分をよくし、血の気をおさえて、食欲を増進する。こころの不安をぬぐいさって、精神を活発にして、健康増進に役立つものである、というわけです。

じつは現代の医学でも、少量のアルコール摂取が人体に好ましい効果をもたらすことは認められています。その効能のまず第一はストレスの解消です。

酒を飲んだあと、皮膚にある種の電気的刺激を与えると、精神的緊張がとれていることが実験的に証明されています。ストレスのかかった状態では、体内では副腎皮質ホルモンやカテコールアミンというホルモンの分泌がたかまっています。しかし、お酒を飲んだあとには、あきらかにこれらの分泌はおさえられています。このカテコールアミンは血圧を上げる物質(昇圧物質) としても知られています。

つまり、高血圧の要因のひとつでもある。カテコールアミンの抑制は、アルコールの血管拡張作用とともに一種の降圧剤的な作用効果をもっているということです。

また、成人病の代表格に動脈硬化がああります。動脈硬化は血液中のコレステロールが動脈の血管壁に沈着しておこる。しかし、コレステロールには、このようなワルサをするもの(悪玉コレステロール=LDL )と、逆に動脈の血管壁を掃除する役割をはたしているもの(善玉コレステロール=HDL) があります。
悪玉(LDL)と善玉(HDL)

アルコールにはこの善玉コレステロールを増やすはたらきが認められている。心臓(心筋)内の血管で動脈硬化がすすむと、心筋梗塞や狭心症などの心臓病がおこる。心筋梗塞というのは心筋の血管がせまくなってつまることのほかに、血液の粘りが増してかたまりやすくなることによっても生じます。

アルコールにはこの、血小板の凝集作用をおさえるはたらきもあります。このようなことから「少量の飲酒家が長寿である」という報告は、日本だけでなく外国でも多数報告されています。

したがって、「酒は百薬の長」という呑んべえのお題目は、立派に意味をもつことになります。ただし、それはあくまで「少量の飲酒」に限定される話でることをは忘れてはいけません。

アルコールは医学的には広義に「向精神薬」となっていいます。近ごろ話題になったコカインなどの麻薬も向精神薬なら、お茶やコーヒーのたぐいも仲間となってしまいます。

「鎮んだ状態にある精ふ神を賦活する物質」が向精神薬ですが、薬剤であれば、ふつうはいくらとるとどうなるという量で効果判定が可能です。

しかし、その意味あいからいうと、アルコールは向精神作用を測定するための基準がもうけにくい性質です。つまり、落語の「五升酒」に代表されるように、大酒を飲んでもシラフ同然の人ちよこもいれば、お猪口一杯で真っ赤になる人たちもいます。

飲酒には個人差がかなりあります。酒は向精神薬としてみた場合、どうしても定量化することができない側面があります。となると「少量の飲酒」といってみても、実際にはすこしも限定したことにならないということになります。

すなわち、酒はからだにとってよいものなのか害があるものなのかは、このかぎりでは判断できない。だから、なんのために酔うのかというこたえも、生理的カラクリにまでふみこんで考えないかぎりだせないのです。

人はなぜ酔いたがるのでしょうか?

古来より多くの人たちは酒を楽しんできました。ということは、やはり酒にそだけのメリットがあるからです。それでは、別の面から洒のもつメリットを考えてみましょう。

アルコールは、すぐれて文化的な産物です。名酒のあるところには、かならず古来から伝統的な文化があります。現在われわれが酒を楽しむことができるのも、その文化遺産のうえに成り立っているのです。

まさに「嘉会の好」で、それにともなって多くの文化遺産を残してきたのです。洋の東西を問わず、万余の文人が酒をことほぐ詩歌をつくり、酒好きの芸術家たちによって絵画が生まれ、歌舞音曲が酒席のかたわらで生まれました。

洒なくして人の世界は成り立たない。この面だけから考えると、酒はまさに文化そのものだといってよいでしょう。人もまた文化のなかに生きている。アルコール文化にかぎってみても、飲む人たちには、その文化をもたらす雰囲気にひたりたいと思う心情があります。

その奥にほのみえるのは、洒を飲む人それぞれの、その一刻一刻に浮かぶ人生や喜怒哀楽の断片です。やぶれた恋に泣き、子女の誕生を喜び、父母の病老を憂う… われわれが酒杯をあげるその一刻の思いには万感がこもるのです。むろん、アルコールをたしなまない人にも、多情多恨、それぞれの人生があります。しかし、飲兵衛たちは、ひとしく酒によって喜怒哀楽の感情がよりよい方向に増幅されることを知っています。喜びはたかめられ、怒りはしずめられ、哀しみは薄められ、楽しみはいやがうえに増すのです。

そのためにこそ、われわれは酒を飲むのです。われわれ飲兵衛にとっては、酒を飲むことは喜怒哀楽のよりよき増幅剤であり、いいかえると、いま生きているわれわれ自身、つまりアイデンティティの確認であるとも思えるのです。

しかしながらこの楽しみが永遠につづくという例は皆無です。たしかに、酒はわれわれの精神に興奮作用や鎮静作用をもたらしてはくれるのです。

しかし、過剰な摂取はてきめんにあだとなってしまいます。得られた快楽のうらには悪酔いの可能性もあるのです。翌日には二日酔い(宿酔)が身を責める。芳醇な香りと、舌にとろけてのちの全身をかけめぐるたとえようもない感動の味です。

この液体と人体のあいだには、つねに至福の境地と、一転して暗黒の境地におちいるあい矛盾した虚々実々の「駆け引き」があります。その矛盾を愛するのも、また人の不可思議なところといえるでしょう。人はなぜ酔いたがるのでしょうか、と問われれば、この矛盾を愛するためというのも、ひとつのアンサーといえるでしょう。

革命的な「火酒」の出現

ビールやワイン、日本酒などの醸造酒より、ウィスキーやブランデーなどの蒸留酒のほうが酒精度の高いことは周知のとおりです。
35度以上の蒸留酒は火をつけると燃えるのです。これを「火洒」( ハード・リカー/スピリッツなど) ともいいます。酒の文化はたしなみ程度にとどめる方向と、逆にただひたすら「重み」にむかう方向があります。

ただし、飲兵衛を自負するかたがたの場合は、もっぱら後者の方向が本道でしょう。

たとえば、飲兵衛のなかには、ビールは口すすぎがわり、本命はあくまで焼酎、ウィスキー、ブランデーと、濃度のより高い酒にシフトさせている人たちが少なくありません。このかたがたの志向はあきらかに火洒を求めてしまうのです。では、この火酒という存在はどう位置づけられるものなのでしょうか。

火酒そのものはヨーロッパでは中世から存在しました。アルコールの語源は「アル・クル」です。アル・クル本来の意味は、古代エジプトで女性用の化粧品として用いられた黒色のパウダー のことです。つまり、あのクレオパトラの眉目を際立たせたアイシャドーやまゆずみの原料として使われたものです。

それが、いつのころにか、まゆずみをとかす溶液の名称となり、やがては中世ヨーロッパにいたって練金術師の使用するところとなる。アルコールの蒸留法をあみだしたのも練金術師であり、彼らの手によってビールやワインから「アク・ビテ」(生命の泉)と呼ばれる液体が抽出されました。

火酒はもっばら薬用として使われる「秘酒」であした。これが日用飲料となったのは、17世紀にはいってからのことですが、最初の飲みて集団となっめいていたのは軍隊でした。

もっとも飲む兵隊たちにとって、毎日の支給量では酩酊するまでにはいたらず、一種の生理的・心理的な潤滑剤の役割をはたす程度でした。いってみれば薬がわりのものでした。だが、この火酒の出現は、それまでのビールやワインを主体としていた西欧の伝統的な飲酒文化を断ちきったという点で、まさに革命的なできごとでもあったのです。

たとえば、グラス1杯のウィスキーやジンのアルコール度はビールのおよそ10倍以上です。ということは、物理的には酔うスピードも10倍アップすることを意味します。

だから、あっというまに酔ってしまいます。酔いの効率化、スビトドアップ、安上がりと三拍子そろった火酒(蒸留酒)が、軍隊から一般市民社会にまで、たちまちのうちに広がったのもうなずけます。

この歴史は、とくに近代文明発展の象徴ともいうべき産業革命の英国において顕著となりました。「秘酒」アクア・ビテは、ジンに姿をかえ、産業革命を下支えする労働者階級にとって不可欠なものとなりました。

というところから英国では、火酒の出現以来、むろん酒豪も増えたではあろうけれども、実際には酔っ払いが増え、アル中が激増しました。

余談ですが、このジンが英国民にあたえた影響は、ウィスキーがアメリカンインディアンの文化にあたえた破壊的影響に匹敵するという説もあります。

十九世紀の英国にあって、エンゲルスは火酒(ジン)の出現に労働者階級におよぽす悲惨さを見、またカウツキーは火酒を民衆の敵とみなしました。

ところで、醸造酒と火酒を比較すると興味ある側面がみられます。原料となるアルコール濃度は、おのずと飲む人の絶対量を規定しているという話があります。醸造酒の場合、そのアルコール分は原料となる植物に含まれている糖分の量を超えることはありません。

たとえば、ワインやビールなどの醸造酒のアルコール分は、原料となる植物の糖分と同量ないしはそれ以下です。なぜなら、醸造という作業はあくまで原料からの糖分の絞りだしのみに限定されるためです。

一方、火酒(蒸留酒)のそれは原料となる植物の糖分量の限界を超えます。これは蒸留という作業が、一度醸造された酒そのものを原料としておこなわれるためです。

かりに5リットルのブドウから1リットルのワインがとれたとすると、ワインを原料にして1リットルのブランデーをつくるためには、もとのブドウに換算すると少なくとも15リットル以上を必要とする勘定になるわけです。

そこで、醸造酒だけを飲む文化では、あまりこのような度をすごす現象はおこらないともされています。

とくに日本酒の場合は、「オサケ(醸造酒) とは、まことに人間にとって不思議なたべもの」です。
たべものならば度をすごすこともありません。したがって、日本酒の場合だと、いかに「酒斗辞せず」という人であっても、かりに飲むこころでとったところで、一度に体内にはいる量には絶対量というものがあるではないか、というわけです。

ただし、近代文明の産物である火酒は、われわれ現代の日本人にとっても、知らずしらずのうちに日常生活のなかでとる洒の量を増やす方向に働いてしまいます。つまり、「酒豪度」を上げる方向、いうならば飲酒量の閾値を超えて飲ませる可能性をもたらしているわけです。

人類はサケをつくるサル

人が酒を飲むのはなぜかという命題をかかげて、ここまで「飲兵衛遺伝子」に行きつくところは、なんといっても、そこに酒という抗しがたい魅力をもつ液体があるためです。

人類はホモ・サビュンスであると同時に、よくホモ・ヴィニエンス(ワインつまり酒をつくるヒト属)、すなわち「酒をつくるサル」であるとも称されます。

古来より身辺に存在する飲食可能な物質のうち、洒の原料にできるもののほとんどを酒にしてきたヒトという種族にとって、この命名はまさにいいえて妙でもある。いま全世界で作られる、酒の種類はどれくらいでしょうか。

麦芽の澱粉糖化酒たるビール。米麹水を原料とする清酒に濁り酒。原料名そのままのブドウ酒。穀物醸造による黄酒、マッカリ、焼酎のたぐい。類縁をあげればウイlキー、ブランデー、ウォッカ、ジン、アクアビット、アラック、テキーラ、キルシュワッサー、ラム、その他、その他と無限につづきます。

ところで、われわれ日本人が酒を飲むようになったのはいつごろからでしょうか。一般的には日本の原始農耕社会で神道が成立発展した紀元前3、2世紀ごろ、弥生時代にまでさかのぽるとされています。

しかし、最近では、もっと古く縄文時代、という説もあります。いずれにせよ、人が集団生活をはじめたころには、すでに酒が存在していたことになります。

酒を摂ることには目的があります。ヒトは神々の加護を念じて祭りをおこないます。その際に神と人との仲立ち役として登場したのが酒です。

瑞穂の国日本ではコメの酒、すなわちドプロクがこうしとされます。ドプロクは天皇の酒として白酒、黒酒につながっていきます。

古代天皇制国家としてのヤマト王朝のオオキミたちが祭嗣したに新嘗祭は、新設のコメとそれから醸しだされるこの白酒、黒酒がハレの飲み物として重要なマツリゴトとされました。

日本神道のハレの行事に必須の飲み物であり、これがすなわち神前結婚の「三三九度の盃」のルーツでもあるとされています。

だが、現在のわれわれが酒を飲むのはハレの日だけではありません。そこで、無意識のうちにみずからの日々をハレ化しようとします。

すなわち、人に問われずとも数多の理由づけをおこなうのもそのためです。だが、酒を飲む目的は、それだけにとどまるものではありません。

たとえば、酒杯のむこうには、その一刻、その一日、のみならず過去や未来に飛び広がるゆたかな精神世界があるのです。たとえば、酒杯のおもむくところには、傷つき疲れた日々のストいやレスに対する癒しの願望があります。

また、ひそやかなよろこびを、たゆとみずからの心のたかぶりとともに昇華させたいとねがう心理もあります。これらの感情は、みずからのアイデンティティの確認であり、これまでみてきた命題のうらに流れるところでもあるでしょう。しかし、人の飲酒行動は前に述べた、たとえばアルコール代謝の個人差に代表されるように、生体にとっては飲む量が増えるにしたがって、それによってもたらされる害も多くなるのです。

問題のひとつは物理的肉体的な側面です。もうひとつは精神面への影響です。では、酒を飲むと、われわれのからだはどんな変化が生じるのでしょうか。
からだにおよぽす酒の影響にはさまざまな説がりますが、ここでは、医学書や生理学書にもとづいた部分を主張したいと思います。

しかし、酒によって引きおこされるからだの変化を説明する学説には仮説も多いんです。つまり、これぞ真実といいきっている説は意外に少ないのも事実です。実証されたものだけではなく仮説も織り交ぜて紹介していきたいと思います。