酔い とは? 酔いがまわったときの脳と体の働き

酔い とは?

酔い とは? 酔いがまわったときの脳と体の働きについて紹介したいと想います。「酔い」とは、アルコールやその他の物質が体内に入ることで、神経系に影響を与え、身体や精神の機能に一時的な変化が生じる状態のことを指します。最も一般的にはアルコールによる「飲酒酔い」を指すことが多いですが、乗り物酔いや薬物による酔いも含まれます。

酔い とは?

主な種類の酔い

  1. アルコールによる酔い(飲酒酔い)
    アルコールが血液に吸収され、脳に到達することで、脳の機能が抑制されます。その結果、以下のような影響が現れます。

    • 判断力や協調運動能力の低下
    • 気分の高揚や抑制の減少
    • 意識の混濁や眠気
    • 重度の場合は吐き気や意識を失うことも
  2. 乗り物酔い
    車、船、飛行機などの乗り物に乗った際に、体の感覚と視覚情報が一致しないために起こる酔いです。主な症状としては、めまい、吐き気、冷や汗、疲労感などが挙げられます。
  3. 薬物による酔い
    特定の薬物や化学物質を摂取した際に、脳や神経系に影響を与えることで起こる酔いです。これも感覚の異常や思考の混乱、めまいなどを引き起こします。

酔いのメカニズム

アルコールなどの物質は、血流に乗って脳に到達します。そこで神経伝達物質に影響を与え、脳の働きを抑制または刺激します。たとえば、アルコールは中枢神経系の抑制作用があり、リラックス効果や抑制の減少をもたらす一方で、過度な摂取により体のバランスや判断力に影響を与えます。

酔いの軽減方法

  • 水を飲む:特にアルコールの場合、水分を補給することで酔いの症状を和らげることができます。
  • 新鮮な空気を吸う:乗り物酔いなどには、外に出て新鮮な空気を吸うことが有効です。
  • 安静にする:目を閉じて横になることで酔いの回復が早くなることがあります。

酔いは多くの場合一時的なもので、時間が経てば自然に回復しますが、過度なアルコール摂取や強い薬物による酔いには注意が必要です。

めまいの原因

飲んで酔いがまわりはじめたとき、たちまち眠りだす人がいます。心地よく酔ったまま、終電をうっかり乗りすごす人もいます。

この、飲兵衛が酔って眠りにはいる状態とは、生理学的には脳に「α波」がでている状態である解釈されています。α波というのは、人が眠った状態にあるときでている脳波のことですが、かならずしも睡眠中だけでなく、目を閉じている状態でもおこることがあります。

α 波がでるのは、人の精神がもっとも安定した状態のときとされますが、要するに脳がなにも考えぬままのめいてい状態です。

酩酊したとき、飲兵衛はしばしばこの状態になります。ひたすら安寧の境地にはいる状態がこのα 波のためだという説もあります。つまり、禅僧たちが悟りをひらくために修業するのもこれでだというわけです。

だとすれば、悟りをひらくためには飲んだほうがはやいのではないか、というへ理屈も成り立つと思われるかもしれませんが、じつはアルコール摂取時ではそうもいきません。

ふだんわれわれが酒を飲んでいるとき、たいていの場合、意識が空白になります。( α 波がでる)のはきわめて短時間です。飲むきもちのあるうちは、再度グラスに酒を満たす。無意識のようにみえながらもちゃんと意識がはたらいており、このような状態では、たちまち脳披はα 波からβ 波にかわっています。「β 波」というのはさめた大脳の活動の状態、すなわち、あくまで精神活動が持続している状態のときにでている脳波です。

飲むときには、最初の段階ではβ 波だけがでています。それが飲むにつれアルコールの麻酔作用により大脳皮質のはたらきも弛緩します。

徐々に精神活動そのものが低下しはじめ、やがては眠りのパターンにはいります。この間、脳内ではβ 波とα 波がいそがしく飛び交いはじめ、ついにはα 波のほうが勝つことになります。

この現象、大飲した場合には傍目にもわかります。これを「アルコールによるα 波の賦活」といいます。ただし、アルコールの麻酔作用によるα 波の出現は、つねに一過性のものであって、また意識的に呼びおこすことはかなり困難です。

つまり、悟りの境地を拓く代用物とは残念ながらなりえないのです。さらに、β 波と亜α 波が交互にではじめたときから、時間的観念の喪失がはじまります。

からだが眠っているときには時間の経過を感じません。一般に、愉しみと感じる時間は不快と感じる時間より短く感じるとされるのですが、酔ったとき時間がたつのをはやく感じるのは、このα 波の関与もあってのことです。そこで、おや、もうこんな時間かと思たときは、からだそのものがいやしを求めている時刻だということになります。

つまり、生理的欲求が示す飲酒の切りあげどきということです。このように、飲兵衛のふだんの酔態には、さまざまなものがあります。

アルコールの影響がまずあらわれるのは大脳のはたらきです。司令官たる大脳皮質が酔っ払えば、当然兵隊どもである神経系の士気も乱れ、風紀が乱れるのは当然です。

アルコールの麻酔作用がよりすすむと、理性を支配している新皮質とともに、もっと根源的な情動・本能的行動を支配している旧皮質がこぞっての大宴会になります。
たちまちにしてふだんは抑制されていた感情がとき放たれて、勝手に「おどりだす」のです。これが泣き上戸、怒り上戸の出現です。

ついでアルコールの麻酔作用は大脳皮質の運動野(領域)から小脳におよび、その作用はさまざまな分野にあらわれます。手が乱れ、足がフラつき、目がまわります。
これらはすべて大脳中枢部のマヒに原因があった。ところで、飲兵衛にこのような酔態がみられるのは、宴会の場や、仲間といっしょに飲むような場合です。一方、ひとりで飲むときにでやすい症状といえば、めまいです。そこで、そのめまいを再度、机上にのせてみましょう。

かつて医学界でなされた古典的定義を紹介すると「めまいとは、身体の空間に対する定位が、そのあるべき状態と異なっていると感じ、みずからがそれをあるべき姿に回復しえずに不快と感ずる自覚症状」となります。

ひらたくいえば運動感覚・位置感覚などの異常のことになる。こワープロで「めまい」を漢字変換させると「眩暈」とでます。
この「眩」なる字は、本邦最古の漢和字典である「和名類聚抄」によると、メクルあるいはメルヤマイと読みます。いうなれば目前のものがゆらりゆらゆら揺れうごいて安定しないさまをあらわすことばです。

メクルめくあの高揚感もルーツはヤマイであったわけです、このカラクリがようやくわかりはじめたのは、1861年のメニエールの発見(メニエール病)以来のことです。

それ以前、わけもわからずめまいに悩まされた天才著名人は意外に多いのです。ルター、スウィフト、ゴッホ、ゲーテ、ボードレール… 。
これらの鬼才天才たちも、やはりわれら飲兵衛の仲間であったのでしょうか

飲兵衛が感じることの多い浮動感・動揺感、昇降感・身体下降感、転倒感などの「非回転性のめまい」のことはディッツネス(dizziness)という。飲んだときの眠り、めまい、いずれも悪酔いではない。このような現象がおきるのは、むしろその人のこころが、アルコールによって深く解放された状態とみなせる場合に多いように思われます。

だが、そのような現象は、親しき友との語らいの場としてのにぎやかな飲酒より、ひとりしみじみと酒を味わう場ででやすいように思います。

では、位置感覚をメタルめく思いのほうに移すと、どうでしょうか?

アルコールのもつホレ薬効果とは?

洒を飲む場所として、男たちが一般に自宅より酒場、ないしはそれと同様の設備のあるホテルなどを好む最大の理由は、酒や肴そのものではなく、結果的にはたとえかなり高くつくことになっても、それにみあうだけの非日常的な世界が提供されるためです。

非日常的な世界を好む理由のなかには、もちろん、仕事や家庭でのわずらわしさを避けたいと願うきも気持ちもあるのですが、それ以上に「男心」をそそるなにかを期待するためでしょう。

このなにかのうちでもっとも大きいのは、簡単に言えば、男と女のラブゲーム、つまり「恋」の芽ばえや進展でしょう。

これは自分のかたわらでサービスにつとめてくれる女性がいる場であろうが、ふたりで誘いあわせて行った場であろうが、基本的には同じです。もっとつきつめていうと、アルコールのもつ口説きの場としての効用です。

つまり、これはアルコールという飲みものが、自分だけでなく相手もその気にさせる、いや、もっと気をそそらせる作用をもつハズだという前提があるのです。

ということは、男女が洒を飲むときには、この口説き(もっと直裁的にいえばセックス) との関連を取りあげないと、片手落ちだということになります。

オンナと語るお酒の場は、やはり酒杯を片手に、暗い紅灯の下が格好の場となります。目くばせひとつで意の伝わるマスターのいる、なじみのスナックやあるいはホテルのラウンジなどで、肩と肩、膝と膝を寄せあわせ、吐息、心音までをも通いあわせる風物は、万国共通のスタイルといえるでしょう。

いやこれもアルコールならではの精神の癒しの行為です。が、これらの行為はおおむねが次の行為への「前奏曲」なのです。
別の魂胆あってのことが少なくないのですが、アルコールのもつ方面での賦活作用というのは、はたしてどの程度のものなのでしょうか。

ありていにいって、アルコールとオンナとセックスの関係はどうなっているのでしょうか。このメクルめくおとこの恋ごころといえるでしょう。週刊誌や夕刊紙がこぞって書きはやす暗き紅灯の下でのオンナをくどく行動にはどういった効果もたらすものなのでしょうか?

小説でも映画でも、ドラマのなかでは、アルコールは必須の小道具です。男がいて、女がいて、そしてアルコールがあって、はじめて口説きの場面となります。

アルコールの摂取には精神の賦活作用があって、日常的な世界ではおさえられていた大脳皮質の活動をときはなちます。つまり、感情面での「邪魔な規制」がとりのぞかれるので、いうことなすことが大胆になるのです。そこで、根源的な欲望であるセックスの側面が顔をのぞかせます。しかし、このような精神の発散は、日常的な世界 において野放図にやるとなにかとトラブルを生みやすいのも事実です。やはり、精神発散の場は非日常的なハレの世界にかぎるということになって、こればかりは景気の変動などとは無関係に、また本人の懐ぐあいに多少のムリをさせてでも、プレイゾーンないしはそれに似た場をにぎわせることになるのです。

たしかに、アルコールには媚薬効果がないとはいえない。飲むとたいていの人は気が大きくなります(または精神的反応が過激になる)。

説明するまでもなく、この現象は男女を問わず飲兵衛なら、だれにでもおこるものです。飲酒は、むかいあった気のおけない男女のあいだで、会話や行動をスムーズにする。「イイ関係」を求めての口説き文句も、飲みながらのものであれば、多少のいきすぎがあっても「酔ったせいでついつい… 」と、いいわけできるでしょう。

また、たとえそれが意図的なものとわかっていても、「お酒の場」での行為だから、と相手のほうもあまりしつこくとがめるようなことはありません。

シラフだとこうは問屋が卸しません。もてない男がバーやクラブに通う理由も、これであることはいうまでもないでしょう。

どんなずうずうしい男でも、シラフのときにはともかく弱気が先に立ちます。アルコールはこの弱気を消してくれます。もしフラれても、「もてぬ奴さわらぬ体でさわるなり」といううさばらしができるのも、アルコールのはいった場ならではです。

では、もうすこし立ちいってアルコールと口説きの効果についてです。ホロ酔い気分までの段階であれば、大脳皮質の制御の解除は感情面での「邪魔な」規制をとりのぞきます。

この作用自体に男女差はありません。いや、平均的にはエストロゲンというホルモン(女性ホルモン)の分泌能力の高い女性のほうがすこしはやいという説もあるのですが、早期の段階では、まだいくぶんか大脳のシラフ部分の活動も残されています。

そこで場の雰囲気に対応した当人の感情のコントロールもくわわります。つまり、女性がそのような関係になることを望んでいるような場合には「お酒のせいでやむなく…」という精神的な責任転化もできるため、交渉の過程が促進することになります。

もちろん、逆の場合であっても、同じ理由によって「ワタシは、そういうことは真面目のときでないとタメなの」と、席を立つことも可能ではあるのですが。

たしかにアルコールには媚薬的な、というより強精剤としての効果はみとめられています。ちなみに、強精剤というのは大脳中枢の精神的抑制を解除することによって、ペニスの勃起をうながす物質です。顕著な効果の認められているものは大麻やモルヒネなどの麻薬ですが、アルコールも含まれる場合もあります。

したがって、アルコールのこの作用は大いに活用してよいのです。しかし、アルコールにこのような効果が認められるのはアペリティフ的な意味で飲む段階までのことになります。
というのは、もう一歩進んだ状態、つまり「ほろ酔い極期」からあとの段階では、逆に性欲そのものを減退させてしまうからです。

生理学的にみれは、要は「飲みすぎるな」ということです。でないと、
惚薬10十日すぎても沙汰はなし(古川柳)
という結果になるのです。

いずれも、その気になって食べれば、効いたということは往々にしてありうる話です。しかし、性的興奮そのものも概して心理的なものが多いのです。この意味からは結果的に効けばなんでもよいのであって、偽薬(プラセポ)であってもかまわないという理屈です。

アルコールもしかりです。このような理由もあって、夢をプチ壊すのは本意ではないのです、現状では、じつはアルコールには催淫(ホレ薬)効果がほとんど認められないというのが、シラフの研究者たちのだした結論です。

人のこころに作用をおよぼす薬剤のことを、専門家は「向精神薬」と称しています。通常われわれも無意識のうちになにがしかの向精神薬を常用しています。

アルコールにかぎらずコーヒーや茶(カフェイン)、タバコ(ニコチン)の類いです。

化学的にはキサンチン誘導体と呼ばれるカフェインには、中枢神経を興奮させる作用があり、心筋(心臓壁の筋肉)の興奮作用や利尿作用をもっています。
また、タバコの葉に含まれニコチン( アルカロイド)には、自律神経や中枢神経にたいして初期には興奮、後期には抑制作用をもたらすことは広く認められているのです。

はやい話がタバコは最初は眠気をおさえたり頭をスッキリさせてくれるものの、図にのってあまり吸いすぎると精神活動を低下させることにもなるというわけです。

このような噂好をもつ人たちは、知らずして一種の向精神薬としての効果を愉しんでいるとみなされるわけです。医学的には、効果にたいする自覚のある精神安定剤や睡眠薬をよく利用する人もこの範疇にはいります。

ただし、アルコールのもつ向精神薬的効果はコーヒーやタバコの比ではないのです。酒を飲んだときには、くり返し述べているように、最初のうちは気分が高揚します。

シラフのうちには行動を律していた邪魔な抑制もとれます。したがってその方面の意欲もたかまることになります。理屈のうえで、これらのアルコールのもつ向精神薬の効果は、男女にかかわりなくおこります。

そこで、シラフではできない衝動的行動にむかうこともありうるのです。ところが、これには個人差があります。飲む量の多少があります。

飲む目的における微妙なくいちがいもあります。ところが、おうおうにして洒を飲む男性たちの多くは、おなじ場で酒を飲んでいるのだから、相方もそうであるハズだと一方的に思いちがいをします。ふだん見聞きする週刊誌や夕刊紙、くわえてテレビや映画がその錯覚を倍化します。

で魂胆あって相方にアルコールをすすめます。飲むほどに邪魔な抑制もとれてきて、双方の目的がシラフのうちからおなじである場合には、両者ともにソノ方面の意欲も大いにたかまって、メデタク完結することになります。
ところが、最初の目的がことなっている場合が問題です。じつは相手もソノ気になるというのはあくまでも錯覚であって、飲む男たちが無意識のうちに自分にしかけた心理的挑発にすぎないというのです。

この向精神薬の作用機序(錯覚現象) 理解しない男たちは、往々にして間違えることになります。酔った男性たちの多くは、たちまちにして精神構造が子どもにかえります。フォートという人は「アル中とはフロイトがいうところの口唇愛願望であって、いうなれば幼児の基本的要求のひとつにすぎない」と述べています。

アルコールの力を借りて女をくどくのは認められます。しかし、それをセックスまでもっていこうとするのは古来からくり返されてきた愚行であって、医学的な見地からみると、これだけで成功にいたるケースはごくごく希です。

運よく成功にいたったとしても、それはアルコールの力ではなく、その人が本来的に備えているオスとしての魅力ゆえのもの、だと専門家たちはいうのです。つまり、くどきの成功の可否は、シラフでも酔っていても条件はおなじであって、酔ってくどいてうまくいくと思うのは、男性側の一方的な思いこみにすぎません、というのが医学者のだした結論です。
なかには、そんなバカな!とおっしゃるかたもおられるかもしれません。

酒で女性を落とせるか

ではその反間におこたえして、まず相方側の反応、すなわち女性が酒を飲んだとき、どうなるでしょうか。その一端をお目にかけたい。某年、某大学病院において20代から30代の女性を対象に、洒を飲んだときの心理動態が調べられました。

いうなれば淑女たちの「飲兵衛テスト」です。被験者となったのは、ある程度大量飲酒の可能なボランティアの看護婦さんたちでした。

調査されたのは、基礎体温を測り、排卵日前後8日の間をおいての2回です。その場で彼女たちに飲ませたアルコール量は、清酒に換算して約2合半といったところでした。調べられた項目は、血圧、脈拍、皮膚温、顔のほてり、言語のもつれ、動悸・息切れ、気分の変化、片めいてい足で立ってのフラつき検査など。マジメな研究者がおよそ考えつくかぎりの酪酎度の指標です。

ちなみに、同量のアルコールを摂取した場合、血中濃度でみるかぎり、一般的には女性のほうが男性より高くなります。つまり酔いがはやいことになるが、これには、女性はエストロゲン(女性ホルモン)の分泌の度あいによって、アルコールの代謝能力が変化するのもー困、と考えられています。

さて、その結果を示すと、彼女たちがアルコールをとった際に、きもちが高揚したのは排卵日の後(月経前)の期間だった。逆に、排卵日前(月経後) の期間では、飲んだとき眠気を感じたり、きもち悪さを訴える人がいたといいます。

この事実だけ考えれば、お互いに酒杯をあげながら、女性をくどいてソノ気にさせられるのは、排卵日のあとの半月間だということになります。

しかし、男性の側にその期間がわかる間柄ということはあくまで理屈のうえだけからの話ですが、すでに双方に、それに先だってアルコール抜きの親密なおつきあいがあってのもの、ということになります。
ともあれ、すでにそんな関係であれば、ほの暗き紅灯の下での男女のアルコールのやりとりは、度をすごすことのないかぎり、大脳皮質の邪魔な抑制もとりのぞかれるため、両者にソノ方面の意欲をおこさせるよき触媒となることでしょう。

り返し述べているように、大脳皮質の抑制がとれれば、見た目には精神が解放されたような現象がおこることになります。このメカニズム自体に男女差はありません。また、ふつうは女性のほうが酔いもはやいのです。ただし、これはあくまで、男性の側に大酒志向がなく、また、相方に飲ませすぎないかぎりの話ではあります。

では、これがもっと飲酒行為そのものがすすんで習慣的になった段階、すばりアル中と診断された女性の場合ではどうなるのでしょうか。そんな調査もじつはあるんです。1日平均4合を、9年間飲みつづけている淑女たち37人の「ハイト・リポート」医学編です。

全員一様に訴えるのは冷感です。大陰唇の弾力消失者が7人におよび、40に達した人では15人中12人がなんと無月経になっていました。

では、彼女たちのセックスの回数はというと、ふつうに飲んでいるあいだだと、20代では週三回、30代週2回、40代週1回でした。しかし、アル中におちいってからは、回数はおなじでも、バルトリン腺の分泌を自覚した人はわずかに2人だけでした。行為に苦痛を感じる比率が94.6%と高率となります。

  • 性交そのものを嫌うようになった女性が83.8 %
  • 拒否した人は27.0%
  • 同性愛の道にはしった人が13.5%

あまりデータのない研究分野とはいえ、酔って喜ぶ淑女がことのほか少ないことがご理解いただけたはずです。習慣的な過度の飲酒が女性にもその意欲をたかめて、双方のよろこびを増す作用をもたらすということは、まことに夢まぽろしというほかない結論となりました。

アル中男性は「インポ」になる

かえすカタナで男性の側の問題にもふれておきましょう。では、アルコールをとると男のほうはどうなるのか、というものです。
いうまでもなく、大酒家は女性より男性のほうが多数です。したがって、この間題についての回答はとっくの昔からだされているようにもみえます。
まず聞くべきは、行為、欲求の基本的原点です。

「ご自身いまもなお勃起が可能」と思っている人たちは、26人と全体の半分以上(62%弱)を占めます。おおむね元気とみなすべきでしょうが、「では、射精も可能ですか」との問いに「ハイ」とこたえられたかたがたはわずか5人にすぎませんでした。

ほとんどはカラ元気だったということです。ついで、「いまもなお欲望がおありですか」との問いには、18人(43% 弱) が「ハイ」と返事がきました。

関連して、では「行為の際にも飲んでいますか」とたずねると、「ほとんどの場合がそうだ」とこたえたのは16人(42% 強)でした。

しかしながら、「飲んだために性交不能におちいった」とこたえた人たちのほうが22人(56%強) と多めでした。内訳は16人が勃起不能、6人が射精不能でした。

さらに、「飲んでおこなうときのほうが、飲まずにおこなうときより快感が大きい」とこたえた人たちは11人(29% )。つまり、本人の意思にはかかわりなく、逆にシラフの際のほうが得られる快感は高かった(16人=42%強) ことになるのです。
なお、既婚同居者群では、パートナー(夫人)におこなったアンケート調査が付加されています。そこでは…
20人は行為を望まれたとき「いやいや応じる」とこたえているものの、9人は「拒否する」とこたえています。「喜んで応じる」とこたえたパートナーはわずか1人でした( といって、このご夫婦はそれまでの3年間まったくの無交渉であった、とのただし書きがありますが。)

また、「夫に性欲なし」とこたえたパートナーたちが14人にもいました。この報告ではパートナーたちの拒否する理由が明記されてはいませんが、夫側の回答と重ねあわせれば察するのは容易です。「夫に性欲なし」とこたえた14人のパートナーの声が代弁しているのです。

アルコールにおける催淫効果を期待する人たちは多いのですが、飲んで行為におよぼうとするものの、気ばかり逸ってモノが立たないというのが、過度の飲酒者での平均的な姿なのです。
では、いっそのこと、アルコールにマムシ、マタタビ、イモリの黒焼その他、古来より伝えられたさまざまの強精薬物を混ぜてみてはどうなのか、という声もあります。しかし、これらの努力もおおむねはフィクション、まぼろしの世界の物語に終わるのが通例だと研究者たちは口を揃えます。

アルコールは催淫剤ではないとの結論に至るのです。もっとも、アルコール摂取が少量であるうちは、精神を興奮させる効果がないわけでもないのだから、飲兵衛の方々は、その衝動のキザした際には、あくまで出し入れの順序を逆にされることをおすすめするほかありません。

つまり、かりに飲むとしても、せいぜい食前酒程度の量にとどめるか、でなければ飲むまえにソノ行為をすませ、あとはゆっくりとアルコールを愉しんでいただくよりないのです。機能をうしなってなげくオノコは哀れとはいえ、やはり下道酒というべきものでしょう。

酒をやめたら、もうひとつの健康を損なってしまう

古来より「飲酒は楽しみを以って主となす」といいます。しかし、その楽しすぎることが酒の害でもあるとも言われています。
酒をなぜ飲むかと言われれば、体にいいからという答えはありません。なぜ喫煙するかときかれても、体にいいからとは言いません。

しかし、多くの人が、酒を飲み、煙草を吸います。酒をやめたら、もしかしたら健康になるかもしれません。長生きするかもしれません。しかし、それは、もうひとつの健康を損なってしまうのだと思わないわけにはいきません。

洒をやめたら、もうひとつの健康を損なってしまうのだよ。と、飲兵衛たちはひとしくこのことばに納得します。「人はなぜ酒を飲むのか」との命題をかかげ、その理由をさまざまに問いかけてみました。

めまい二日酔いなんのその、アルコールにまさっうてこころの憂さをはらす手だてはないではないのでしょうか。天下が傾こうと槍が降ろうと、酒盃をとる飲兵衛族にとっては、今日もまたアルコール記念日、日々愉しきものかな、との浮き立つこころにあったということです。

ところで、気になるのは「もうひとつの健康」です。これは酒を愛する人たちならだれでも気になるところでしょう。では、アルコールを愛するというのは、本当に病気なのでしょうか、ただの不健康なのでしょうか。

アルコールを習慣的にとる行動とは、いったいどこからを異常とみなすべきなのでしょうか。酒を飲んであらわれる人格の破綻とは、どこからが後天的な酒乱によるもので、どこまでが生まれつきのものなのでしょうか?

また、酒を飲んで大言壮語し、タワごとを吐いてみたりもする癖はどこからがアルコールのもたらすイタズラであって、どこまでが生まれつきの癖なのでしょうか。「アルコールを習慣的にとる人たちには、さまざまな特徴がみられる」とあると漠然としています。

たとえば、嫉妬、やきもち、うつ状態、酒酔い運転、残業にかこつけての飲酒、記憶低下、隠れ飲み、インポテンス、加えて深夜の長電話(テレホニティス)などがそれに該当します。

しかし、ふつう、だれでもがとられるこのような行動まで、そのすべてがアルコールをとるために生じる弊害ときめつけるのはいかがなものでしょうか 。

酔っぱらい運転はともかくも、嫉妬、やきもち、うつ状態、残業にかこつけての飲酒、インポテンス、深夜の長電話。これらの行動のすべてをアルコールのためとみなすことには、飲兵衛であるわたしも疑問を持っています。

すでにアル中(アルコール依存症)と診断された人などでは、禁断症状があらわれたときに幻聴、幻覚、錯覚、錯視などとともに、このような症状がでることは少なくないのです。

たとえば、大量に飲んだときは、道徳的な規制がとれます。ときには美醜の感覚まで喪失します。しだいに判断力や記憶能力もうしなわれていきます。そのとき本人がインポぎみであった際、パートナーが浮気をしているのではないかと妄想するケースがあります( これをアルコール性嫉妬妄想といいます)。医者のいう嫉妬、やきもちその他はこのような場合だというわけです。

飲みすぎると弱くなる

では、アルコールを習慣的にとりつづけていると、どんな状態がでるようになるのでしょうか。この点での著名な研究者にはアメリカ人がいます。第二次大戦前のアメリカでは禁酒法時代がありました。

映画テレビでおなじみのギャングを横行させたこの法が廃止されたとたん、皮肉にもあちらではアル中が増え、別の面で社会が乱れてしまったのです。このアル中の増加現象が、じつは アルコール依存症は、れっきとした病気である」と、医者たちを叫びださせる呼び水ともなりました。

ジェリネックはそのリーダー格のひとりです。彼は、人の飲酒行動が異常化するパターンを大別し、さらに行動のきっかけとなる徴候をこまかく43分類しました。

ジェリネックのいう「飲酒行動の異常化」は「前アルコール症相」にはじまります。前アルコール症相とは息抜き飲酒が常習化する段階のことです。

ほとんどの飲兵衛とってはごくふつうの行動です。ついで「前駆相」に移ります。めやすは「ハテ、おれは夕べどこで飲んだのだっけ」という「ブラック・アウト」現象の出現です。やがて隠れ飲みがはじまります。はてはブラック・アウト現象が頻繁におこりだすまでの段階が前駆相です。

このあたりから、飲兵衛のなかでも個人差がではじめます。

第三段階を「臨界相」といいます。そろそろ危なくなる段階です。飲む本人には「自分は飲兵衛なのだから、少々乱れることもある」と自己弁護する状態がつづき、家族や医者たちから「あなたはもう病気なのでは?」と疑われる境界域です。
ポイントは抑制の喪失です。はやい話が歯止めがきかなくなって、飲兵衛はひとしくおのれの飲酒癖を合理化したり正当化するようになります。

この段階もさらにこまかく分けられているのですが、とどめは「朝ざけの規則化」です。つまり最終段階を「慢性相」といいます。それまでは酩酊する時間が夕刻以降であったものが、この段階にいたると、のべつまくなしとなってしまいます。この現象を「遷延酩酊の開始」とも表現します。

そのあと、人体のアルコールに対する受けつけ能力が低下しはじめます。なんと、お酒によわくなってくるのです。これを耐容性の低下といいます。しかし、それでも飲酒行為はおさまらないのです。のつまり、本人みずからがキプアップして、医者に救いをもとめるようになるのです。

ついでながら、ジェリネックはアルコール依存症者をα(アルファ)からβ(ベータ)、γ(ガンマ)、δ(デルタ、ε(イプシロン)までの5つのタイプに分けています。

  • α…心理的要素の高い飲酒者(飲酒抑制も禁酒も可能の人)
  • β…身体的な病気をもつ飲酒者(たとえばけがや歯の痛みを酒でまぎらせるようなたぐいで、まだアルコールそのものに対しては心理的、身体的依存のみられない人)
  • γ…すでに抑制を喪失している飲酒者(身体的かつ心理的依存があり、加えて飲酒抑制もできない人)
  • δ…禁酒はできないが飲酒抑制ならできる人(一見、意志強固にみえる人)
  • ε…渇酒状態の飲酒者(長期かつ過度の大酒飲みの人)

ジェリネックのあげた「臨界相」とは、飲兵衛がひとしくおのれの飲酒癖を合理化し、正当化する段階のことです。ここで、自分の飲みかたが病的だと客観視できる人は飲酒の回数や量をひかえることができます。

先にすすむほど「アル中度」が高くなっていくことになります。しかし、彼は、この5つのタイプのすべてをアル中とみなしています。たかが嗜好品とはいえ、アルコールは一定量以上ヒれば、たちまちにして薬理作用があらわれます。

飲兵衛たちのこころをハイにするのです。まことにきもちのよい状態をかもしだします。だが、アルコールをとる日々をくり返すうちに、飲兵衛は意図的、無意識的に好ましい状態にあこがれ、その状態が長くつづくことを願うようになります。これこそアルコールの向精神薬的効果と言えるでしょう、とジェリネックに代表される医師たちは口を揃えます。

この種の作用をおよぼす原理は、いつにして薬剤の中枢神経系への刺激です。薬剤の側からすれば、しだいにもっともっとと、より多くとらなければおさまらなくなり、結果的にはそれがいっそう依存傾向を強めるところが問題となるのです。このような依存を招く原因は、当然、環境的なこともあります。

いや、禁酒法後のアメリカの例のように、環境こそアル中を生みだす最大の原因ではないか、と考える人もでてくるでしょう。原理的にみても、アルコールそのもの餅存在しない環境下では、飲兵衛とて酔っぱらおうにも手段がありません。

そんな疑問からアル中=環境素因説、つまり飲兵衛の環境要因を探っている途中で、珍しい規範をみつけました。人がアルコール依存をおこしやすい条件とはーこの規範を示すのは、米国アルコール中央委員会という団体です。

  1. 家族内にアルコール依存者ないしは禁酒主義者がいること
  2. 配偶者ないしは身内に1の条件を満たす者がいること
  3. 欠陥家庭や問題のある親がいる家庭
  4. 大家族の末っ子か、世代のうちの若い半分に属すること
  5. 一世代以上まえに、うつ病をくり返す女性の親類がいたこと

おそらく定型的な疫学や統計分析から導きだしたものだと思いますが、幼児体験のトラウマ(精神的な疲痕)から、夫婦関係、家族関係などが、人が酒を飲む癖に影響をおよぽすこともうなずけないわけでもありまsn。しかし、4、5のあたりになると、やはりどうかという気がします。

われわれが酒を飲むのは、あくまでも自由意思にもとづくものであって、一世代以上まえにうつ病をくり返す女性の親類がいたりしたせいではない、と思いたいのです。
飲む機会や場所、飲酒をすすめる広告類などの氾濫している今日、アル中と環境因子は、単純に考えれば、密接な関係にあるようにもみえるのですが、実際に環境のなかにアル中素因を見つけ、ることは思いのほか困難でしょう。

この米国アルコール中央委員会の示している、一見非現実的ともみえる規範の設定は、その困難さの一例を示すものといえるでしょう。

アル中にいたるかなしみ酒

2杯が3杯、3杯が4杯と酒杯をかたむけるにしたがって、飲兵衛の疲れをとり、精神いや的な癒しを増すのが、この魅力にあふれた液体の向精神薬的作用です。

向精神薬とは、脳脊髄などの中枢神経にはたらいて精神を賦活(活性化)する作用をもつ薬剤のことです。服用量が増えるにしたがって、当然、精神を活性化する作用も大きくなります。

さて、アルコールの場合はどうでしょうか。アルコールには、この作用が十分すぎるほどにあります。ひとつ間違えれば精神異常をきたしたり、ときには覚醒剤のような副作用をもたらしたりするほどです。そのような状態が「アルコール依存症」におちいった人たちにでるさまざまな異常や症状なのです。
アルコール依存症はこちら

精神医学的な観点からいえば、「アルコール依存とはある環境下におかれた特定の者が自らの意思でアルコール飲料の急性中毒作用をもとめ、くり返しこれを摂取すること」です。

飲む当人にとって最初は愉しいはずのアルコールが、しだいに憂うつの度を増しはじめてくるのです。
医者のいうアルコールによる「酔いの本態」とは、鎮静剤や睡眠薬と同様の範疇にはいるれっきとした向精神薬作用です。この点をもう少しくわしく述べると、つぎのようになります。

薬物(向精神薬)に依存するという意味あいには2つの側面があるのです。「精神依存」と「身体依存」です。アルコール常飲者の多くにみられる依存の多くは、精神依存のほうです。

薬物依存とは、その薬理作用の体験がじつに心地よいものであることを知り、再度、追体験したくなる心理的欲求のことです。

この心理的欲求が社会的、医学的な許容範囲にとどまっているあいだであれば、おおむね「正常域」であるとみなされます。

つまり、飲酒時にもたいした問題はおこりません。しかし、少数派とはいえ、飲兵衛たちのなかには、かりに行動自体が社会的には「正常域」にあるようにはみえていても、すでに身体依存を生じている人たちがいます。

人のからだの組織が絶えまなくアルコールの影響下におかれたような場合には、一見、奇妙な現象がおこります。それは、アルコールの作用を比較的よわく受ける部分の神経のほうが異常に興奮するということです。

すでに麻痺して「役立たず」の、つまり正常な機能をうしなった神経は「無視」されて、まだアルコールに毒されていない一部の神経のほうがよけいに影響を受けるというわけです。

なぜ、このような現象がおこるのかというと、これはまだ機能的に正常度をたもっている神経が、けなげにもからだの機能をできるかぎり正常に維持しようとして、代償的にはたらくためであろうと説明されています。
そこで、このような場合、正常な神経に興奮が生じたときには、体内ではアルコールの抑制作用を打ち消すほうにはたらくことになります。

アルコールへの適応性がでてくるわけです。この段階では、見かけ上アルコールの影響は弱くなっています。飲んでも酔わないので、もっと飲みたくなります。

一方、このくり返しによって、からだの側(正確にいうと神経組織)の抵抗力が徐々に強くなってくるのです。アルコールに対する神経全体の耐性が増すわけです。
つまり、酒量が一段と増えることになります。だが、酔いの心地よさを求めて飲む量を増やしっづけているうちに、しだいに、それ以前には飲んだときにしかでなかった神経の興奮状態が、アルコールの切れた段階でもつづくようになってきます。

過量のアルコールに対応すべく、一部の神経の興奮が、切れた状態になってもすぐにはしずめられなくなってしまうのです。

そこで、からだ(神経)は酔いっぱなしでさめなくなってきます。この現象を「興奮性の病的症状の発現」といいます。

いいかえれば「禁断症状」(退薬症候)がでるわけです。アル中( アルコール依存症)と診断されるのは、この段階からです。

病気でいえば、アル中とは慢性薬物中毒のケースです。この状態はアルコール中毒と見なしてもさしつかえないわけですが、医学的には「中毒」とは急性症状のことをさす言葉です。

ほかの「中毒」の場合は、症状がでたあとふたたび同様の行動をくり返すケースは少ないのでうが、アルコールの場合には、本人に自覚があっても飲酒行動をくり返し、その結果病的症状があらわれるところから「依存症」と呼ぶわけです。

これまでのことをまとめしょう。アルコール依存症は、まず精神依存によって生じる異常飲酒行動にはじまります。日々酒を飲みつづけている場合には、その薬理作用による急性症状の反復が生じます。ここまでは精神依糊存の段階です。しかし、飲む量が増えるにともなって、しだいに身体依存が生じるようになります。
アル中には、このように二段のステップを踏むことになるわけです。最初の徴候を示す異常飲酒行動とは、ひとくちにいえば自制心の喪失です。

  • 飲んではならないTPOすなわちときと場合と状況の無視
  • 濃度の高いアルコールのガブ飲み
  • 昼夜関係なしに飲む
  • 隠れ飲みをする
  • 飲みはじめたら泥酔するまでやめない

このような行動がそれに該当することになります。まだ、これらの異常飲酒行動は、飲酒が慢性化するにしたがって、身体依存を示すさまざまな症候がではじめるのですが、この症候にも大別して2種類あります。

すなわち、アル中(アルコール依存症)の症状には、いわゆる「禁断症状」に由来する症候と、酒毒の「慢性的な弊害」に由来する症候の2つに分けられます。

前者は「アルコール退薬症候」と呼ばれるものです。不眠、不安、からだのふるえ(振戦という)、運動障害、異常発汗、筋肉のひきつれ、嘔吐、妄想、幻覚(幻視・幻聴)、全身のけいれん、失神、発熱、昏睡…。

このような症状は、たいていの場合はアルコールの血中濃度が下がったとき、つまりシラフにもどったときにでるのが特徴です。

なお、飲んだ状態でも、酩酊状態に達していなければでることがあります。後者は「アルコール慢性中毒症候」といわれるものです。

記憶障害、痴呆、人格破綻、意識障害、せん妄などの脳の障害を示す精神症状が特徴です。さらに、肝障害や膵炎、その他もろもろの臓器障害もでます。

アル中はなおりにくいといわれます。それは、神経の興奮する最初の段階で心地よい感覚がともない、この感覚には抗しがたい魅力があるためでしょう。

しかし、依存がもっとすすむと、酒を飲んでいない状態では、精神的不安だけでなく、アルコール退薬症候にみられるように、からだ自体も落ちつかなくなるためでもあります。とはいっても、アルコール慢性中毒症候のでる段階では、たいていの飲兵衛たちは、家族や知人たちのすすめを受けて、精神科を受診するようになるでしょう。

うつ病を防ぐアルコール摂取

ところで、アル中の成り立ちには、農村型と都市型の二派があるという説があります。陽が傾くと、今日も仕事が終わった、さあ今夜も飲ろうという習慣が重なるにしたがい、気がついてみるといつしかアル中だったというタイプが農村型です。

これに対して、仕事の労苦や精神的うっぶんがつもり、ストレスがこうじて、飲んでいるうちにアル中におちいるというタイプが都市型です。

労働の質や精神的過労度がたかまっている現在では、農村型タイプより都市型タイプのアル中が増えていると予測されますすが、このような不断にかかるこのストレスヘの対応と「漕ぎけ症候群」すなわち酒に飲まれるという心理には、どこか共通するところがあるように思えます。

よくこころの憂さがこうじてなる病気に「うつ病」(デプレッション)があります。本来デプレッションとは不景気をさすことばですが、まさしくうつ病もこころが不景気になった状態を示す病態です。
もっとも、最近のアメリカ精神医学会などでは、このデプレッションは「ムード・ディスオーダー」( 気分障害)という用語におきかえられつつあるともいいます。

用語の別はともかく、病的にアルコールをとる人たちには、われわれがうつ病におちいるケースと似ているところがあるような気がしてなりません。そこで、まず、うつ病とはどんな病気なのかを考えてみたいと思います。

うつ病は人のこころに陰りをもたらす病気といえるでしょう。このような情動を示すケースはかならずしも成人男性だけではなく、世代や性差を超えて存在します。

かつて、うつ病は思春期うつ病、成人のうつ病、老年期うつ病などと世代単位でくくられることが一般的でした。

最近では、情動の特徴や世代的なくくりから「○○症候群」と命名されて、マスコミをにぎわす機会が増えています。

以下に紹介するものは、厳密にはすべてがうつ病というわけではないのですが、治療の場では、こころの病として、もっぱら精神科医や心身症専門医の手にゆだねられることの多いものであるか若い順にならべてみると、まず「登校拒否」があります。
20歳前後では「ピーターパン症候群」がでてきます。つねに母親から世話をやいてもらい大人子どもの青年群である。同様の自立心なき女性をさすものに「シンデレラ・コンプレックス」というものもあります。

似たものに「青い鳥症候群」があります。これも母親の影響から脱しきれずに、言われたことには順応するのですが、といって固有の主張や自我を持たない幼児や青年たちのことです。

また「アパシー症候群」もあります。社会や政治その他、世のうごきにたいしてなにごとにも無関心、無感動のシラケ世代の若い男女のことです。

30代を中心に頻発するのが「出社拒否症」です。やく年代が10歳ほど上がって厄歳前後になると「サンドイッチ症候群」におちいる人も増加します。

いうまでもなく新人類と鬼上司にはさまれてうめく中間職層特有のものです。だからといって安易な昇進願望もくせものです。

当人にはうれしいはずの昇進がきっかけとなってうつ状態を呈すのです。「昇進うつ病」も案外多いのです。これが窓際を意識しはじめた50代になると、朝起きて朝刊を見るのがつらい「朝刊症候群」なども登場します。

あと5~10年で定年ないしは定年直前という人たちにしのびよるのが「上昇停止症候群」です。そして定年後には無気力、やる気なしという「燃え尽き症候群」がでてきます。

一方、女性では、40歳代以降に多いのがズバリ「キッチンドリンカー」で、別名「台所症候群」とも呼ばれます。最近のはやりは、娘や息子が独立したあとの亭主は粗大ゴミ、ぬれ落ち葉。あとに残るのは、ながいむなしさだけという「空の巣症候群」です。

サラリーマンの鑑がかかる「うつ」

ついでながら、うつ病症状の発現には、アルコール依存のケースとは逆に、じつは精神症状より身体症状のほうが多いのが特徴です。

まず身体・生理機能の低下がくる。たとえば性欲の減退や喪失、不眠。また食欲不振、からだの倦怠感。疲れやすい、食欲がなくやせてくる。

あるいは腹部の不快感、吐き気・嘔吐、など便秘、下痢などの消化器の症状もでます。血圧の変動や自律神経系の機能異常を示す動悸、イライラ、四肢冷感、からだのほてりなどが生じます。

典型的な四症状をあげれば、睡眠障害、意欲減退(抑うつ)、食欲不振、頭痛・頭重です。

睡眠障害には、寝つきの悪さ、眠りが浅くなる、早朝覚醒(早朝3時、4時ごろに目がさめてしまう)などがあり、目がさめてもすぐにはおきられない寝起きの悪さなどもあります。このなかで、とりわけうつ病の存在を示すポイントは早朝覚醒です。夜半に目ざめたあ血と眠れない。うつうつと寝返りを打つままにすごすため、結果的には寝起きも悪くなります。断片的にいやな夢を見ることも多くなるでしょう。

疲労感・倦怠感の発現頻度も高くなります。ついで首筋や肩のこりなどの症状がひどくなります。うつ病は、世代とは無関係におこると述べましたが、やはり多いのは中年期の男性です。徐々に体力も衰え、高血圧、狭心症、胃潰瘍、がんの多発をみる年齢にあるのが中年期の特徴です。

からだの衰えを自覚すれば、だれしも自分が元気であったころを懐しんでは、ウジウジと過去の体調にこだわったりするでしょう。
それにひきかえいまのオレはと考えれば、きもちも暗く沈みます。うつ状態になりやすくもなるのも当然です。

「うつ病」はまぎれもなく病気です。発病には、なにかストレスとなるこころの負担やきっかけがあります。たとえば喪失体験。

大事なものをうしなったときにはうつになりやすいのです。うしなってはじめて気づくのが人やものへの愛着です。最初は気がつかないのです。知ったところで、それはすぎた過去のこと、ささいなことだと自分のこころにウソをつきごまかします。
その傷は心の底に沈みはするが消えはしないのです。痛手を回復できないままにその傷をおさえつけようとしています。

かつてフロイトは、人がこのようなときにうつ状態におちいるのは「喪失体験」や「悲哀の仕事」のメカニズムがはたらくためと言いました。
からだに変調をきたしたときには医者に行く。うつにおちいった中年諸氏の場合、その受診態度はきわめてまともなのが特徴です。髪を振り乱し、あらぬことを口ばしったりするのは精神の破綻であって、これは精神病の範噂での病気です。

うつ病患者の多くはにこやかに笑みを浮かべて、医師の問うあれやこれやに理路整然と応対し、けっして乱れません。

このため、いまでは「微笑うつ病」などと名づける医者もいるくらいです。こころに深い悲しみを負う者ほど態度は沈着です。

これがうつ病にあらわれた真実ですうつ病になりやすいタイプとは、いうなればサラリーマンの鑑ともいうべきかたがたです。くり返しますが、この病態に理解を示さないただの医者は誤診してしまいます。血圧、尿、血液、レントゲン、心電図と、その医者のもつ器材や武器を総動員してさまざまに調べてはるのですが、ほとんど異常なしとでます。

そこで、今度はしつこく聞くことになります。あらわれた異常のほとんどは身体上のものである。そこで、原因を聞かれても思いあたるやまいフシがないのです。

「まあ飲みすぎですな、なに気の病ですよ」とかるくいなされてしまいます。いなされた人のなかには、せめて酒でも飲まなければ気の晴れようがないではないか? という人もでてきます。
そのあげく、うつ+アル中でいのちを落す人もいるほどです。話を本筋にもどすが、うつ病とアルコール依存症とは、たしかに病態生理や治療法はことなります。

しかし、これまでいろいろ述べてきたうつ病にみられるこれらの症状には、都市型のアル中者、すなわちアルコールに救いを求めつつおぼれていく中年世代の男性と、意識や態度において共通するところがあるように思えてなりません。

ただのアル中ならお酒をひかえればなおります。と、たいていの医者は口にします。たしかにアル中症状は改善されるでしょう。

しかし、酒をやめたらこころにぽっかりと穴があいて、もうひとつの健康を損なってしまうではないでしょうか?アルコールをとっただけでうつにおちいるわけではないのです。だが、うつをまぎらせるために酒量を増す者は少なくないのです。世にうつ病が増える大きな原因は、だれでも知っているようにストレス社会の進行です。

われわれがアルコールにはしりたがる理由にあえてこじつければ、たとえそれで得られるものが一刻の夢まぽろしであるとはわかっていても、こころの優しさを保ちつづけたいという願望があってのことなのです。

最初の徴候は「ブラック・アウト」現象

アル中におちいっていく心理過程には、つねに身体的依存とウラハラになっていることが多いのです。愉しみの漕がうっぶん晴らしの酒にかわり、夜ごとくだ巻いての千鳥足となるうらでは、確実に意識の喪失現象が進行していくのです。すなわち「ブラック・アウト」現象です。

意識喪失までいかない記憶喪失であって、飲酒中あるいは直後のできごとの一部を忘れてしまうこと」なのです。なお、この現象は、アル中者だけでなく、ふだんあまり酒を飲まない者でも身体的・精神的な疲労のあるときに飲酒をすればおこることもあります。

この飲酒後の部分的健忘をさす現象は、前にあげたジェリネックのいう飲兵衛の「前アルコール症相」から「前駆相」にはいる特徴(めやす)とされるものでもあるのです。

しかし、酒を飲んで乱れる現象には個人差がつよくでます。そこで、このブラック・アウトがどの時点からあらわれるのかについては異論も多いのです。

たとえば飲兵衛大国たるフランスのある研究者は、ジェリネック説にかみついて、それはアングロサクソン系だけで通用する話であって、自国では、たいていは末期段階でしかみられないものだ、といっています。しかし、そのいずれであっても、飲兵衛を自負する人たちには、どこかの時点でひとしくおこる現象だと思われます。

また、このブラック・アウト現象は、飲兵衛のこころとからだに進行している病理現象をつなぐ中間項といったところでもあります。すなわち、おこる度あいが高いほど、それだけこころだけでなく、からだの異常の度あいもすすんでいるとみなしてよいでしょう。

アル中はぼけやすい

人間だれしも歳をとれば、多かれ少なかれもの忘れ現象がおきます。細胞のはたらくスピードも鈍ってきます。これは脳の機能を支えている神経細胞の数が減っていくためです。

脳内の神経細胞の数は、成人では平均でおよそ140億個存在するが、20歳をすぎれば1日に10万個ずつ失われていくというのが今日の定説です。

ボケることのひとつの徴候は記憶の喪失です。記憶中枢は、酔いの本態の説明のところでも述べた感覚中枢の集まる「大脳辺縁系」と呼ばれるゾーンにあります。より正確にいうと、側頭葉にある「海馬」という領域です。

日々の記憶はすべてここに蓄えられるしくみになっているのですが、ここの神経細胞はたったの10万個程度しかない。これが日々破壊されていくのです。
人はボケはじめると、記憶が先祖がえりをして昔のよき思い出だけが残る人が少なくないのです。

この現象は、極端にいえば、最初に消えるのが現在進行形の記憶、つまりほんのすこしまえの、もっとも近い過去であることを示しているのです。しかし、どこまでが正常の範囲内で、どこからが痴呆のはじまり、と境界線を引くのはそれほど簡単ではありません。

たとえば判断力の問題です。若い世代のほうがおおむねシャープですが、しかし、高齢年代の多くの人が一様におなじ傾向を示すとすれば、それは脳の機能的な衰えではあっても、異常であるとはいえないのです。そこで、病的なボケ(=痴呆) とは「成人になってからおこる知能障害のことです。また、これが原因で、それまでできていたことができなくなり、日常生活にも支障をきたす。介助の必要の生まれるような状態のこと」だと定義されています。

まず指標となるのは「もの忘れ」である。ふつうのもの忘れだと部分的なことにとどまるのですが、痴呆の場合にはまるごと忘れてしまいます。

痴呆の進行にともなって、ただ忘れることから、計算能力がなくなったり、自分のいる場所を忘れてしまったり(失見当識)します

。つまり判断力そのものがうしなわれます。ブラック・アウト現象もこれに近いのです。痴呆者では、当人にとっては忘れたことすら忘れてしまうようになります。正常者ならなにかを忘れたときには、自分がそれを忘れたことに気づきます。

だが痴呆者ではその自覚がありません。もっと始末の悪いのは、被害者意識のようなものがあらわれることです。この状態では「幻覚、妄想、俳掴」などがはじまることが多くなります。

ご近所に「嫁がワタシの財布を盗った」とか「いじめる」とかいいふらし、家族を泣かせるのもこの段階です。

アル中者にあらわれたボケ症状でも、程度のちがいはあっても、ここまでは老齢によるボケと似た行動を示すようになります。

ここでは痴呆の成因にくわしくはふれませんが、医者から「痴呆症」と診断されるケースで実際にもっとも多いのは、脳出血・脳梗塞などの脳血管障害による痴呆と、退行変性疾患つまりアルツハイマー型痴呆です。
この2つのタイプのうち、日本人では脳血管障害が原因でなるもの(脳血管性痴呆症)が多くなります。

アルツハイマー型痴呆とは、アルツハイマーという医者が最初に発見したところからの命名なのですが、欧米人に多いタイプです。

あらわれる痴呆症状はおなじであっても、脳血管の障害とはまったく無関係です。はやい話、アルツハイマー型痴呆は脳そのものが萎縮するのです。萎縮は側頭葉の海馬域からはじまります。脳血管性痴呆症が、たとえば脳卒中で倒れたあとなど、どちらかといえば、ある日突然発症するのにたいして、アルツハイマー型痴呆症はゆっくりと進行していくのが特徴です。

進行が遅いので、このタイプでは、いま痴呆がどの段階にあるのかということがわかりやすいのが特徴です。この点、アル中者にみられるボケ症状と似たところがあります。異なるのは原因の有無だけです。

アルツハイマー型痴呆症でも、初期の段階でおこるのは、やはり「もの忘れ」です。医者はこの段階を「健忘期」と表現します。

これに失語症や失見当識などの判断力の喪失が加わります。

夜間落ちつかなくなり俳諧がはじまります。精神的混乱や幻覚・妄想などもでてきます。これが「混乱期」です。最終的には肉親の顔を忘れるといった高度の認知障害をおこします。失禁したり、体力がおとろえて寝こむことも増えてきます。この段階を「痴呆期」といいます。

ボケやすいタイプ

では、ボケになりやすいタイプ・職業というものはあるのでしょうか。かつてある地域で調査されたデータによると、痴呆老人に共通する条件として、次のような7つのタイプがあげられていました。もっとも、医学的に因果関係が証明されるのは、病気の原因や成立過程がはっきりしているものにかぎられるため、アルツハイマー型痴呆のようにまだ手さぐり段階にあるものでは、厳密にはこのような関係は成立しません。

  1. 若いころから仕事にも遊びにも熱中できず、怠慢な生活を送ってきた人。覇気がなく、おとなしく、家庭でも軽くみられてきた人に多い。
  2. 仕事一辺倒で、趣味、ゲーム、スポーツなどに無関心だった人。学校の先生、大学の教授、役人、銀行マンの一部にみられるタイプ。比較的、反復的・非創造的な仕事をつづけてきた人。自分でつくりだすより、ほかから与えられる種類の仕事。自営業よりは、宮仕え。定年のある職種。また仕事に追われて暮らし、日々の生活をエンジョイしていないタイプの人。
  3. 非社交的で、親しい友人のいない人。
  4. 性格的には暗く、頑固で自閉的な人。
  5. 経済的には困っていないが、生きがいのない人。
  6. 一般的には、大家族より核家族の人(ただし、ひとり住まいの人にもカクシャクとした人はおおぜいいる)。
  7. 都会のマンション住まいの人。かるい痴呆は田舎にも多いが、重症におちいる人は田舎には少ない傾向がある。また、一般に自営業の人や開業医など少ない傾向はあっても、子どもに代をゆずって引退したのちは頻度が高まる。

ちなみに、ほかの調査データをみても、たいてい大同小異の傾向を示します。、その「病前因子」 は、わがまま、頑固、潔癖、しやくし定規のタイプ。趣味が少なく、社会への参画意識に乏しい等々、という指摘です。

これらの調査結果からは、ある特定のイメージが思いうかぶ。仕事、それもカタいイメージのある役所や学校などできまり仕事を無難にこなし、気がつけばすでに定年。そこそこに持ち家はあっても子どもはすでに独立。ふだん訪れる友もなく、1日相手となるのはもっばらテレビだけ。孤独で淋しい日々を送ります。これぞまさしく現代の典型的なニッポンの父なのです。

戦後の日本の繁栄を下支えしてきた核ともいうべきマジョリティー集団でもあるのです。であれば、うがった見かたをすれば、これら小市民的生活様式には、すべてとは小心ないまでも痴呆症になるまえの日々の生活そのものにこそ「痴呆的」な芽がある、ともいえるのではないでしょうか。

かりに、ボケが小市民的生活様式に根ざすものだとすれば、問題の本質は現在すでにボケにいたったニッポンの父たちだけにとどまりません。あるいはわれわれ自身にも、いやそのあとにつづく若者たちのほうが、この条件にピッタリあてはまるとは言えないのではないでしょうか。

  • 非社交的で、親しい友人のいない人
  • 性格的には暗く、頑固で自閉的な人
  • 経済的にはこまらずとも生きがいのない人
  • 大家族より核家族の人
  • 都会のマンション住まいの人

この観点に立てば、かつての「ニッポンの父」 的世代では、物心の豊かさや生活の安定をねがう小市民的願望がボケの発生につながってきたのです。

が、そうした願望がすでに満たされたこれからの若者は、他人不干渉型のアパシー願望が、ボケの発生と深くかかわってくることになります。だとすれば、人が老いてボケるという現象は、アル中同様に、医学的病理とみなすより、社会的病理とみなすほうが、妥当です。

厚生省の調べによると、1985年の65歳以上の痴呆老人の総数は50~60万人でした。これが2000年には112万人になると予測されています。いますでに65歳以上の人たちの5%が痴呆(症)老人なりますが、この実数、比率はともに年々増加することはあっても減ることはありません。

では、アル中者の場合はどうでしょうか?

かりに、人が日々の癒しのために飲酒をはじめたにせよ、長年の習慣は酒への依存を生みます。やがて、その依存は精神的依存にとどまらず、肉体的な崩壊へとつながって、究極的にはアルツハイマー型痴呆にも似た神経系の崩壊が生じていきます。

痴呆の医学的成因には立ちいらないまでも、このように、アル中者の発生と生活様式の原因には、痴呆症を生みだす現代の社会環境そのものからくる点が現代社会なのです。

肝臓が1日でこなせるアルコールの代謝(分解処理)量は、何度も紹介していますが、平均的な体重(65kg) の飲兵衛で計算した場合、純粋アルコール換算で160 g (日本酒なら6合、ウィスキーではボトル半本)程度なのです。

一夜にして空銚子で万里の長城を築かれた酒豪のかたがたでも、その「絶好調」3夜とうづくものではないことは、周知のとおりです。

そのあとにくる二日酔いの地獄絵もご想像のとおりでなのです。にもかかわらず、飲兵衛があきずに酒を飲みつづけることは古今東西、万国共通のものです。お酒でひどい目にあい「もう飲まない!」といって断酒できた人はいません。

日本酒は世界で一番うまくない洒のひとつかもしれません。その証拠には、日本酒だけは、空腹の時でないとうまくありません

。これをうまく飲むのには、厳しい摂生が必要です。僕も、晩酌の義務を楽しく果たすために、午後からは、お茶も飲まなまずに耐えています。

試みて僕は知っている。酒の一番うまいのは、朝湯のあとの小酌だということを。この点、酒は好きだが、酔うのは嫌いだという人も多数います。

だから日本酒を愛用している人が多いのです。日本酒だって、もちろん、飲めば酔います、ところがこの酒は、飲みようによっては酔わずに飲めるのです。

人にもよりますが、の洒なら酔わずに飲めるという人は意外に多いのです。しかも長時間、美味いと思いつづけながら飲めるのも日本酒の特徴です。

別に秘伝があるわけではありません。ゆっくり飲むだけです。ちびちびやるのがポイントです。これだと何時までも酔わなないで酒を楽しめます。

そしてだんだん美味くなって来るのです。忙しい人には出来ない飲み方です。宴会や会合の席では、これが出来ません。独酌が一番です。また、心の合った同じ飲みっぶりの友があれば、なおさらよろしいのは言うまでもありません。

沈黙の臓器「肝臓」

では、飲兵衛を自負される方々は、はたしてご自身の肝臓のはたらきを十分にご承知でしょうか。

ここで、飲兵衛のからだの原点ともいうべき肝臓のはたらきを考えてみましょう。

すでにご紹介したとおり、体内の化学工場にたとえられることの多い肝臓の基本的なはたらきは、代謝、排泄、解毒の3種類です。
この工場はまことに静かなうえ、すぐれて無公害でもあります。食物の栄養分を分別処理し、各組織細胞に必要な栄養分を補給しょうと血液中に送り出します。

不要不急な養分は貯蔵します。人体にとって有害とみなす物質は分解解毒して、腎臓などの排泄処理器官にバトンを渡します。あわせて消化吸収に不可欠な胆汁をつくりだし、ホルモンの調整やビタミンの貯蔵、体内の水分の章第コントロールをするのが仕事です。これまで随所で登場したアセトアルデヒドの分解も、この肝臓のはたらきあってのものです。

しかし、人は酒がなくても生きられるが、肝臓なしでは1日も生きていけないのです。畑肝臓そのものは、成人男性では体重の約3% 、1.5 kgと、数ある体内臓器のなかでも特大サイズです。組織の大半はぎっしりとつまった肝細胞によって構成されているのです。

この肝細胞が正常でさえあれば、肝臓は半分以上切りとってもたちまちにして復元するほど再生力が強く、また予備能力も十分です。

たとえば、ここにかなり大きながんができたとしても、健康な肝細胞が2~3割くらい残ってさえいれば生還も可能なほど「パワー」にあふれた臓器です。

日々黙々と仕事をこなしているこの肝臓で、ただひとつこまることは、ここになにかの病気がおこった際、症状がでにくいことです。肝臓が「沈黙の臓器」と呼ばれるのも、このあまりにも静かな性質によるものです。そのへんの特徴の話はあとにまわして、問題はあくまで、肝臓とアルコールとの関係です。

たとえば、二日酔い現象です。飲んだ酒がワルサをすることだけはたしかですが、その本態がいまだにとらえきれていないのです。こんなに医学が十分進んだのにアルコール依存症や肝臓の病気が減らないのです。

疲れた肝臓に!特許取得成分配合 二日酔い・飲み過ぎ対策サプリ「エカス ekas」

生理的には人それぞれ飲める量の限界があるとされるものの、その限界点を超えて飲んでいるにもかかわらず、依然として孔子様さながらにシラフ同然の人がいることもまた事実なのです。したがって、これからの話はあくまで、現在の医学からみたごく平均的な飲兵衛におこりうるものであることです。

こんなデータあります。肝硬変死亡率が高く、逆にニュージーランドなどでは消費量の多さにもかかわらず死亡率が低いのは、これまで述べてきた蛋白食品を中心とする基礎栄養の摂取量の差に関係があると考えられます。

さて、日本の所在は左方下位にあって、ギリシャ、スウェーデンなみといったところです。ともあれ目を細めて点の集まるところをたどっていけば、左下から右上へと確実に肝硬変がふえていることが一目瞭然なのです。

飲兵衛の国ほど肝硬変による死亡率が高いというのもうなづける話です。
厚生省大臣官房統計情報部がまとめた最近の資料によると、わが国の人口10万人あたりの「慢性肝疾患及び肝硬変」による死亡率は、男性18.88人、女性8.6人、男女あわせた平均では13.6人です

一方、肝臓専門医たちが調べたところでは、日本の肝硬変患者中のアル中比率はおよそ2割だそうです。ちなみに昭和50年の調査では、肝臓病で入院していた患者のうち、常習飲酒家の割合は2割、大酒家は1割でした。

一見、少ないようにもみえますが違うのです。それでは、アル中者の死亡原因との関係はどうかといえば、それ以前、つまり昭和26年から52年にかけての古いデータでみるかぎり、イヤなことをいうようだが、肝硬変の死亡率とアルコール消費量は先の図とピッタリと重なりあっているのです。

しかし、平成元年の肝硬変死亡率のデータだけでなく、最近の統計的解析によると、現在の飲兵衛の肝硬変による死亡率と、アルコールの消費量や蔵元やテレビなどでのCM量の伸びとは、かならずしもー致しているとはいえないのです。医者たちの必死の追究調査にもかかわらず、総飲酒量は増えても(うれしいことに) それがかならずしもわれわれ飲兵衛の死亡率の増加を示していないのです。この事実に、肝臓専門医たちは相当にくやしがっています。

たとえば、研究レポートなどには「全体数としての「アル中」は増加していなくても、アル中患者の飲みすぎが地獄への一里塚でないという証明にはならない」といったことばが見られるからです。

数字ばかりでいささか気がひけるのですが、こんなデータをお目にかけておきます。大酒を食らってカラダを壊す飲兵衛たちは、どの地域に多いのかという「アル中マップ」です。

昭和61年に全国113施設で肝臓病入院患者が追跡調査されています。そのなかのアル中患者(全国平均で肝臓病入院患者中14%を占める) の地域別ランキングでのトップは関東、2位近畿、3位北海道・東北、5位北陸、6位九州、7位中国・四国でした。
ただし、これは男性だけの順位であって、女性の場合には地域差はみられませんわが国における飲酒にともなう障害の発生は「東高西低」という結果です。

それはさておいて、飲兵衛を自負されるかたがたに、では、あなたはどれくらいアルコールはいけますか、とお聞きしたいところです。

くり返し述べてきたように、酒量の物理的な閥値は基本的には飲む人の体重に比例します。しかし、肝臓とてナマ身の臓器であり、前日のはたらきすぎその他による機能的なおとろえもあって、その日その日の肝臓の状態はかならずしも同一とはいえません。すなわち、いかに飲兵衛といえども、夜ごと大量のアルコールをとりつづけることは、やはりムリが生じることになるのは言うまでもありません。

ネこで、とくに注意していただきたいと思うのは、総飲酒量が増えてもそれが直接的には飲兵衛たちの死亡率の増加にはつながっていないということは、あくまで「総論」であって、「各論」すなわち人それぞれにそのまま適応されるものではない、ということです。飲みつづけることの怖さを示すものに「160×20」という数式があります。

これは肝臓専門医がいう「肝硬変量」という計算式です。絵ときをすると、冒頭で述べた標準値160g、めやす量でいえば日本酒六6合以上のアルコールを20年間飲みつづけると、だれでも肝硬変になりうるという「悪魔の計算式」です。飲兵衛のかたがた全員にあてはまるものではなくとも、すでに肝硬変になったほとんどの飲兵衛諸氏では証明されている数式です。

肝臓を痛めるのはアルコールより暴飲暴食

アルコールはなぜ肝臓を痛めつけるのでしょうか?多くの飲兵衛たちが抱くこの疑問について、結論から先にいうと、肝臓専門医や研究者たちの追求にもかかわらず、本当のところはまだよくわかっていない…というのが事実です。

一般に、人のからだを害する要因を考えたとき、そこにはさまざまな因子が見つけだされるものの、単一の原因でなるとみなされるものは、感染症のような場合をのぞけば、むしろ少数であることのほうが多いのは事実です。さらに、まだ知られていない要因によっておこっているケースもけっして少なくはないのです。このことは肝臓の場合にもあてはまります。

肝臓への障害を考える場合、かりにアルコールが原因物質であったとしても、肝臓の持ち主であるからだの側の条件いかんで障害がつよくでることもあれば、まったくでないという可能性もあります。

飲む人の固体差もあれば、遺伝的素質もあるのです。極端にいえば、たとえば肝炎ウイルスなどに感染しているケースなどでは、当然肝機能は低下しており、ごく少量のアルコール摂取でも、それだけで肝臓にたいするダメージはつよくでることになります。このような病因にまつわる論議はおくとして、アルコールがわれわれの肝臓にどんなダメージを与えるかについて、これまでに考えられてきた「仮説」があります。そこで、以下に、そのいくつかの仮説を紹介してみましょう。

有力なものに、二日酔いの元凶とみなされているアセトアルデヒドが肝臓にたいして「悪玉」してはたらいている、とする説があります。こう考える専門家は少なくない。人体にとって、アセトアルデヒドがアルコール(エタノール)にくらべてはるかにつよい化学反応性(薬理中毒性)をもつことはたしかです。
アセトアルデヒドには、細胞内でエネルギーをつくりだすはたらきをするミトコンドリアや細胞膜などを、直接痛める作用のあることが知られています。

大飲すればするほどアセトアルデヒドも増える理屈となります。そこで、肝臓内でアセトアルデヒドの薬理中毒性の与えるダメージも、一般的に、アルコールをとる量に比例して大きくなるであろう、というのがその仮説の根拠となっているのです。
アセトアルデヒドの問題を考える際、見落としてならないことは、ALDH (アセトアルデヒド脱水素酵素)との関連です。
前に、ALDH には4つのタイプがあって下戸には型因子が欠落している、と述べたくだりを思いおこしていただきたい。

当然、下戸では大量の飲酒は不可能ということになります。事実、アルコール性肝障害患者にはほとんどこのⅠ型因子欠乏者が見あたらないのです(つまり下戸はいない)というわけです。この理屈から考えれば、アセトアルデヒド主犯説はおおむね妥当ということになります。

だが一歩進めて、ではアセトアルデヒドが肝臓を痛めつけるのは、具体的にどんなカラクリになっているのかというと、この点はまだよくわかっていないのです。ただ、脂味たっぶりの肴(高脂肪食品)をとった場合、例のメオス系でのアセトアルデヒドの産生が高まることはわかっていまる。そこで、どうやらこのアセトアルデヒドの増加現象が肝臓を痛めつけているらしい、ということになっているのです。

からだが必要とする以上の栄養素がはいってきたとき、あまった栄養素は脂肪のかたちで蓄えられます。この仕事をおこなっているのも肝臓ですが、飲兵衛たちは肝臓での脂肪酸の代謝や脂肪の放出機能が、飲まない人にくらべて低下していることがわかってきているのです。とくに肝細胞のミトコンドリアでの脂肪酸の代謝機構がうまくはたらいていないのではないか、と疑われているのです。

この見地に立つとすると、飲むときには、なんでもいいからものを食べてさえいれば肝臓叫はやられないという論理はウソなのだということを、飲兵衛たちはしっかり認識していただきたいと思います。

まだわからない酒と肝臓の関係性

さて、もうひとつの考えかたは、アルコールの常飲が徐々に肝臓を弱めるという「自然衰退説」です。具体的にいうと、たとえばアルコールの常飲は肝細胞で「線雄性結合織」という役立たずの細胞をどんどんつくりだします。
この線雄性結合織の増加が、肝機能を低下させるもとになっているという説です(この結果「脂肪肝」という病態があらわれる)。

つけくわえておくと、アルコールの常飲は脂質代謝(=脂肪酸の分解)能力を低下させて「アルコール性高脂血症」をきたすという説もあります。高脂血症というのは血液中の悪玉コレステロール(VDL)などの脂質成分が増加する症状で、動脈硬化などの原因ともなるため中年世代にとっては要注意の病態です。

また、アルコールの常飲は、摂取すべき栄養素のバランスを崩すことが多く、結果的に肝臓所有者の栄養状態を低下させるところから、体力の減少につながる。いわゆる免疫機能の低下をきたすわけですが、それがB・C型肝炎(などの肝臓を痛める感染症) にかかりやすくさせるという説もあります。

さらに、酒を飲んだときには、ADH 系であろうがメオス系であろうが、アルコールを分解するときには酸素のはたらきが必要となります。しかし、大量のアルコールが流れこんできたときには、分解に大量の酸素が必要になり、肝臓に酸素が不足し、一種の「酸欠状態」生じます。これが肝臓の細胞を痛めているという説もあります。

もっとドラスティックな考えかたは、われわれが日夜取りこんでいる酸素そのものを「悪玉」視するものです。酸素は体内で食べたものを燃やすはたらきをしているが、酸化の過程で反応性の高いかたちにかわります。これを「活性酸素」( フリーラジカル) といいます。

酸素はラジカルな(活性化した) 状態にあるとき、体内でさまざまなワルサをします。とくに細胞膜に過酸化脂質をつくりだして細胞そのものを痛めてしまいます。この現象は白内障、動脈硬化など、心筋や腎臓で悪役となってはたらくことはよく知られているのですが、肝臓でも同様とする説です。

事実、その証拠には、アルコール性肝炎患者の血液からは過酸化脂質の反応を示す物質が検出されているではないか、というわけです。

余談ながら、からだに慢性的な害をおよぼす疾患で、およそ本態の究められた病気はほとんどないのが現状です。あれも疑われればこれも怪しいというのが病気の世界ですが、肝臓病とて例外ではないということになるのです。

カウボーイの飲み方は日本人には無理

酒を飲んだ際、その影響のおよぶ器官は肝臓だけではありません。口、のど、食道とアルコールが伝っておりる消化管や、搬送路となる血管などでも影響がでます。

大量に飲んだあと、すぐ影響があらわれるのは胃です。アルコールには胃粘膜を刺激するはたらきがあります。ガストリン(消化ホルモン)などの分泌をうながすため、胃液の酸度が高くなり、食欲増進をもたらします。

しかし、大量に飲んで嘔吐やむかつきなどの二日酔い症状がとれずに医者に行くと、医者はたいていの場合、つよい酒をたくさん飲めば胃腸に影響がのこるのはあたりまえだと言います。

カラカラの炎天下、馬から降りたカウボーイたちが、酒場でカウンターでいきなりバーボンをほうりこむ姿をよく見ます。西部劇でおなじみのこのシーンを日本人がまねをすればどうなるか。バーボンならぬ焼酎を生のままで飲ませた人を調べた結果によると、飲酒後1週間程度で胃の粘膜にびらん(潰瘍の初期症状)が発生したというのです。

しかし、6層構造からなる胃壁はもともとタフにできており、口からとり入れたものならたいていは消化します。びらん程度のキズならあっという間になおしてしまうこともまた事実です。相当の大酒飲みといえども、30代、40代では多少の差はみられるものの、50歳以上の世代では、飲兵衛と下戸との間には、アルコールが胃壁におよぽす差は認められていなません。

では、大酒+ ヘビースモーカーの場合ならどうでしょうか。このケースでは、はっきりと胃に害のあることが証明されています。酒を飲みながらの喫煙が、からだによい結果をおよぼさないことはいうまでもありません。

また、酒をとりつづけているとかならず胃潰瘍になるのかといえば、そうはなりません。胃潰瘍の主因はあくまでストレスです。そこで、アルコール=胃潰瘍の原因とはいえないのですが、大量にとっている人の場合では、それが胃にとってストレスとなる可能性もなくはなく、まったく障害を与えないとはいいきれないのです。逆に、老人の胃潰瘍でも、ストレス解消のために晩酌1本程度なら飲んでもさしっかえない、という医師もいます。

ついでながら、胃がん患者でもアル中と下戸とのあいだで発症の差はみられません。つまり、アルコールは胃がんの原因ともみなされていません。

ただし、すでに胃粘膜に病変をもつアル中者の場合には問題が生じてきます。たとえば、「食道静脈瘤」や、「マロリーワイス症候群などになった人では、アルコールをとると、すでに病んだ血管を拡張させて出血がとまらなくなるので要注意なのです。といって、この病気になったかたがたが、日々家庭や病院で大酒を食らっているとも考えずらいのです。

アルコールの大半を吸収する小腸ではどうでしょうか?

小腸ではこれといった障害がみられないが、ひとことだけ生理面で追加説明しておくと、小腸ではアルコールの吸収時に回腸という部分の蠕動運動が活発化します。つまり、内容物を前送りする速度がはやまる。ということは、アルコール以外の摂取物もはや送りされるわけで、飲兵衛に下痢が頻発する傾向がみられるのは、この現象によるものだと考える医師も多数います。

問題が多いのは、となりにある膵臓です。酒を飲むと、この膵臓は敏感に反応を示します。飲みすぎがテキメンにからだに症状としてあらわす病気に「膵炎」があります。膵炎には急性膵炎と慢性膵炎があるが、問題はあとのほうです。

慢性膵炎という病気は、おなかがジタジクと痛む症状がつづき、放置しておけば、やがては膵臓からでているインスリンというホルモンの分泌が止まり、糖尿病になるというやっかいな病気です。現在、この慢性膵炎の6割強にはなんらかの意味でアルコールがからむとみなされています。

といって、アルコールがなぜ慢性膵炎をおこすのかは、肝臓を痛めつける理由とおなじで、まだ本態はよくわかっていません。ただし、アルコールを1日に100~200g (日本酒換算で4~7合)とりつづけていると、9年ほどででてくるという報告もあります。また、論より証拠に、わが国の慢慢性膵炎患者の増加率と年間アルコール消費量の増加率は、ぴったりの相関関係を示しているのです。

たしかに膵炎患者には大酒飲みが多いのは事実です。さりとて大酒飲みの全員が膵炎になるわけではないのもまた事実です。そこで、慢性膵炎になる飲兵衛は、どうやら酒量の多少ではなく、飲酒マナーのほうが問題なのではないか、という意見もあります。

「やりますか?」「ええ、ちょっとだけなら」という社交的飲酒家や、つきあい好きの女性に多いのがこの病気です。

では食べもののせいか、と医者が疑うのは、大腸がんなどと同様に食事の西欧化傾向です。高蛋白・高脂肪食を疑った研究者の実験では、たしかに高脂肪食がクロとでています。だからといって、現実に飲酒時に酒肴を選ばずモリモリ食べているような飲兵衛が、はっきりタメだといいきれるところまではまだ証明されていないのです。確たる証拠がなくにえきらない話ですが、ただし、臨床的には飲兵衛におこる慢性膵炎のほうが、下戸におこる慢性膵炎より治りがわるいことだけははっきりしているのです。

とにかく飲兵衛にとって膵臓という臓器は、なんとも気にかかる存在であることだけははっきりしています。

では、腎臓ではどでしょうか?腎臓では、アルコール摂取時には、バソプレッシンという抗利尿ホルモンの分泌が抑制されます。このため、飲んでいるときにはトイレに通う回数が増えます。それ以外の顕著な変化はまだ認められていません。

血圧や心臓の機能、脈拍などの循環器系ではどうでしょうか。まず血管系では、アルコール摂取時には血管拡張作用による皮膚め赤らみ、からだのほてり(熱さ)などの現象はみられるものの、脳血管や心臓の冠動脈での血流量はほとんど不変であって、まず病的な事態を招くことはありません。

また、少量であればHDLという善玉コレステロールが増加します。ただ、飲兵衛のなかには、ときに「アルコール性心筋症(障害)」という不整脈をおこす病態のあることが知られています。まれに死にいたるケースもあるので、心臓病の疑われている人は要注意といえよう。

酒があだなす「肝臓病」の病態

おもしろうて、やがてかなしくなるのは鵜飼いだけではありません。飲兵衛が酒を飲んだあと、二日酔いのつらさやブラック・アウト程度だけですんでいればまだご愛敬ですが、長年のむくいが積りつもって肝臓を痛めはじめると、おだやかではなくなるのは言うまでもありません。

飲兵衛を自称するどんな方でも、これまで肝臓病の心配をまったくしたことのないかたはいないと思われますが、以下、本命ともいうべき肝臓病についてのポイントを紹介していきましょう。

酒を飲みつづけてウン十年。自分の肝臓のはたらきにいささか衰えを感じてきた方ならば、すでに一度はひそかに健康雑誌やアルコール医学読本のたぐいをのぞかれているかもしれません。

まず「飲兵衛の危険信号」 としての目安は「γ-GTP」という検査値です。健康人なら20 単位をきっており、これが正常値です、
しかし、日々アルコールをとって肝臓のはたらきがいささかあやしくなった人では、この値が200から400単位を示すようになります。
極端な場合は千単位ちかくまでハネ上がっていることもあるのです。

のγ-GTPの値、じつは「禁酒さえすれば10日から2週間で半減する」と専門書には書かれているのですが. 多くの医者はそれを指摘してくれないことが多いのです。

γ-GPT 、GOT、GPTは、いずれも血液中にある肝臓のはたらきを示すめやすとなる酵素の活性値です。ただし、GOT、GPTの値が高いときには、かならずしもアルコール摂取だけのせいではなく、ほかの原因、たとえば肝炎ウィルスの感染によってもたらされた可能性もあるのです。

ALPは肝臓から排出されている酵素で、体内でリン酸化合物の分解や搬送役をになっています。肝硬変や肝炎などの障害があると、この値がおおむね高くなります。肝臓専門医は、その値の上がりかたの程度から病変の内容をこまかく分析していきます。

LDHは、乳酸からピルビル酸をつくりだす酵素です。この値が上昇したときには、肝臓の異変だけでなく、がんや悪性貧血、心筋梗塞、筋肉での異変などが疑われます。コリンエステラーゼとは、アセチルコリンという神経伝達物質が興奮したときの後始末をしている酵素です。値が上がっても下がっても問題なのです、とくに肝臓の障害が疑われるのは下がったときです。

血清コレステロールについては、一般にもよく知られているように、とくにそのうちの悪玉コレステロールの値が上がったときが問題となります。

医者はこのような指標を使って「静かなる臓器」のようすをさぐっているわけですが、酒飲みにも百態あるように、肝臓のつよさよわさも百人百様です。したがって、検査データの読みかたも、本当のところは、家庭の医学本に書かれているように一様なものではないということです。
あくまで飲む人の体調や酒歴、他の持病などを考えてきめるものなの

酔ったからこそ知り得る体のこと

酔ったからこそ知り得る体の不思議

飲兵衛の息はなぜ臭いのだろう?

洒の香りはじつに芳醇です。飲兵衛にとっては、この香りには抗しがたい魅力です。しかし、ひとたび体内にはいったあと、飲んだ人の吐く息、立ちのぽるにおいは、ご存じのようになんとも形容しがたい「悪臭」となります。

これはなぜでしょうか。順序として、最初に、酒を飲んだときには、体内でどのような過程をたどるのかという点から考えてみましょう。
アルコールの最大の特徴は、なんといっても吸収されやすいことです。物理的特性をあげると、アルコール( エタノール) は化学用語でいうところの低分子物質です。
つまり構成している分子量が小さいので細胞膜での透過性が高いのです。

したがって、組織のなかに直接とりこまれる性質をもっているふつうの食べものは、胃や腸などの消化管で、いったんドロドロにこまかくし、粘膜を通過できる分子量にまで小さく分解処理をおこなわなければなりませんが、アルコールの場合はこの消化の過程が省略されます。
となると、体内でのアルコールの吸収は、洒を含んだ口腔内でただちに開始されます。しかし、吸収される量は、アルコール分子の大きさに比例するため、口腔内での吸収は飲む酒の濃度によって少々異なります。

また、滞留時間とも比例します。ブランデーやウィスキーなどを飲むときには、舌への快い刺激とともに鼻腔に満たされる芳醇な香りを愉しむ過程がくわわるためやや長めとなりますが、ビールなどの場合にはほとんど一気にのどへとむかいます。

つまり、酒の種類や飲みかたで一定ではないことになるのですが、口腔内で吸収される分量は、平均的にみて酒量の3% 程度といったところです。

食道ではほんの少々。胃では17% 程度を吸収しています。残りの80%ほどは十二指腸・小腸で吸収する、というのが現段階での定説となっています。

小腸はもともと養分の吸収をになっている器官なので、残りの全部はここで吸いあげられて打ちどめとなります。口腔内から小腸までの粘膜から吸収されたあと、アルコールは血管にはいります。めざすゴールは肝臓です。血液はおよそ20秒で体内を1周します。

つまり、吸収されたアルコールもおなじスピドで体内の臓器や組織に到達します。ところで、アルコールにはもうひとつの物理的特性があります。

それは、水に溶けやすいことです。これはブランデーやウィスキーなどの製造時に、いったん高濃度に蒸留した原液を水でもう一度、一定アルコール濃度に薄める過程がとられていることなどからも、容易に理解できるはずです。

この性質は体内でもかわりません。吸収されたアルコールは、まず血液の流れに乗って全身の組織にゆきわたります。とりわけ水分量の多い臓器ほどアルコールを多めに蓄積します。

具体的にいえば、脳、腎臓、肝臓などです。ミクロにみれば、アルコールは全身の血管をめぐつて、最終的には門脈という経路から肝臓にはいります。
肝臓はアルコールの分解工場ともいうべき臓器であり、大部分はここで代謝されることになります。

各臓器や組織にとどまっていた残存アルコールも、いずれは肝臓にむかうことになります。しかし、肝臓にはいって代謝されるアルコール量は、全飲酒量の80%以上とはされているものの、すべてではないのです。

途中、肺で酸素と炭酸ガスが交換される際に呼気(吐く息)にでたり、汗やそのまま尿にかわるからです。飲んだ量の2~10% は、このように肝臓で代謝されずに「漏れていく」と推定されています。当然のことながら、このガス交換によって吐きだされるアルコールが、飲兵衛の吐く息のアルコール臭の最大要因となるのは言うまでもありません。

臭いのもと

ところで、尿以外のルートから体内の水分がでていくことを「不感蒸泄」といいます。不感蒸泄には呼気にでるものと発汗によってでるものがあります。

なぜこのような作用がおこなわれているのかといえば、最大の要因は体温の調節です。体温を一定(体内温は37度である) に保つために、人は無意識のうちにこの不感蒸泄をおこなっています。

われわれの体内で水分にかわる原料は、口から入る液体としてとるものだけではないのです。固形の食べものであっても代謝されたあとのいくらかは水に変化しています。

これを「代謝水」というが、これだけでも食べた量の1割以上を占めています。したがって、この代謝水も不感蒸泄源となります。

アルコールのもつエネルギー量は1g あたり熱量7kcalです。アルコールが肝臓で代謝される量は、体重10kgあたり1時間1gがめやすとなります。

これは体重70kgの人でも1時間あたりわずか7 g程度です。清酒に換算すればたったの1合、ビールなら大瓶1本が、3時間を要する計算です。

しかし、アルコールの熱量が1g あたり熱量7kcalというのは、あくまで計算上のことです。体内で利用される正味は5kcal であって、あとは直接熱源となって体温の上昇作用などをおこなっているのです。

飲むと、このアルコールによる体温の上昇作用も影響します。また、アルコールには血液の流れに乗って血管を通過する際、血管壁を弛緩させて広げる作用もあります。

血管が広がると血流量が増えます。血管が広がれば、体内深部のあたたかい(37度の)血液が大挙して皮膚の表層にでます。

このため、からだが熱くなる。熱くなれば、不感蒸泄作用も活発となります。飲んだときの不感蒸泄のうち、とくに呼気(吐く息)ににおいをもたらしているものの多くは、アルコールが代謝されたあとにでる産物、つまりアセトアルデヒドや酢酸のにおいではないかとにらんでいます。しかしそれだけではなく、代謝されずにそのまま拝発状態となったアルコールや、体内で固形食物からかわった代謝水によるものもくわわっているかもしれません。このため、飲みはじめや早々にきりあげたときなどは、呼気や発汗による不感蒸泄はまだアルコールの血中濃度が高まって、神経系統に麻酔をかけることになります。

つまり酔いがはやまる。「すきっ腹にきく」とよく言われます。悪酔い現象のひとつの原因に、消化管で生じる「乱れ」があります。胃の神経をつかさどっているのは、副交感神経系で、よりこまかくいえば迷走神経がそれをコントロールしています。

脳から出発して胸部、腹部の多くの臓器のうごきをコントロールしている迷走神経は、持ち主の意思ではうごかない自律神経系に属しています。
食事もとらずアルコールだけがはいってきたときには、この神経のはたらきが乱れて、胃を不規則に収縮させます。
いわば神経が驚いて、胃がしゃっくりをおこす状態です。これが嘔吐につながります。吐けば気分もわるくなるのは当然です。。これが悪酔いの原点です。

ところが、最初に、かけつけ3杯などとイッキ飲みまがいの飲みかたをしたときには、吐くことによって気分が持ちなおし、あとはシラフ同然にお酒がすすみます。
一見、魔珂不思議に思えるこのカラクリを説明すると、つぎのようになります。

吐くときにでるものは、当然、胃内にある食べものです。あまりモノを食べずに、つまり胃がカラッポの状態で高濃度のアルコールを流しこむと、じつは胃の出口である幽門が締まって、十二指腸への搬送機能が自動停止します。

つまり、十二指腸に送りこまれるはずのものが、胃でストップしてしまうのです。しかも、それが嘔吐により吐きだされてしまうとなると、その80% を腸で吸収されることになっているアルコールは、胃でわずかに吸収されただけで体外に排出されます。

したがって、この状態ではからだの側は、じつは、ほとんどシラフに近い状態になります。そこで、一度吐いて胃のなかをクリアーにしたあとは、ふたたびスタート台にもどったことになるのです。ひとたび気分がスッキリすれば、「では最初から」ということになり、スイスイ飲めるというわけですが、いずれは2杯が3杯と重ねゆくままに血中濃度は上昇し、飲むピッチもはやまって、かなりの量に到達してしまうのです。

いかんせん、平均的な飲兵衛の場合、24時間での肝臓の代謝能力は純粋アルコール換算で160g程度であって、日本酒なら6合、ウィルキーではボトル半本がリミットです。

ところで、飲んだかたがたの顔は、真っ赤になります。顔が赤くなるのは、直接的にはアルコールのもつ血管拡張作用のためです。アルコールには、あわせて心臓の拍動数を増加させる作用もあります。血管がひらいて心臓のポンプ機能がたかまれば、当然からだの中枢部から熱いままの血潮がドッとでてきます。
それが皮膚表面に広がった末梢血管に反映されます。

一方、酔いがまわるにつれて顔色が青くなる人たちもいますが、これはだいたい、すでに大量のアルコールの常飲によって血管がマヒして広がらなくなったためです。

飲んだあとにおとずれる地獄

では、アルコールをどれだけ飲めば、このような現象があらわれるものなのでしょうか。最初は気分さわやかであり、陽気になる。抑制がとれるにしたがって、体温が上昇する。やがて、気が大きくなり、大声でがなりたてはじめます。そして、千鳥足になります。酒量による個人差を度外視すれば、酔ったときのこのような行動のほとんどは、飲兵衛なら十分ご承知のものばかりでしょう。

立てばふらつく「ほろ酔い極期」あたりで酒杯を伏せられれば、あとに問題を残すことはないのですが、祝宴の場などで往々にして度をすごすことになるのは言うまでもありません。すなわち、吐き気以外の症状があらわれはじめるのです。

おなじことを何度もくり返ししゃべる。呼吸がはやくなる(過呼吸)、まともに立てなくなる、頭がガンガンする、支離滅裂となる…これが悪酔いです。

悪酔いは、おおむね飲んだアルコールの量と比例する。一時に摂取されるアルコール量には限界がありますが、同時に食べる固形物(肴などの副食物)の量にも限界があります。

とくに食べる量が少なかったり、最初の段階から濃度の高い酒を多く飲んだときのほうが悪酔いしやすいことは、言うまでもありません。し

では、二日酔い(宿酔) とはなんでしょうか。かんたんに定義づけておけば、「宿酔とは、飲酒して8~24時間前後にあらわれる頭痛、悪心(きもち悪さ)、嘔吐、腹痛、下痢、頻尿、振戦(手足や全身におよぶふるえ)、心悸冗進(心臓のドキドキ)、過呼吸、発汗、頻脈、血圧降下、その他の「不愉快な自覚症状のでる状態」 のこと」です。

おわかりのとおり、飲んでいる段階から直後にかけてでるのが悪酔いであって、酔いのさめかかった段階ででるのが二日酔いです。

症状には重なるものもあるが、正常な意識をとりもどしつつある後者のほうがおおむねつらいものです。
このような現象のうらには、どんなカラクリが隠されているのでしょうか。ちなみに、この二日酔い現象は、アル中者の「退薬症候群」(禁断症状のでる病態)の原形ともみなされています。

つまり、禁断症状のでる最初の段階は、絶えまのない二日酔い現象からはじまるというわけです。

そのひとつにアセトアルデヒドの問題がある。アルコールの代謝過程は、まずアルコールからアセトアルデヒドにかわります。ついで、アセヽトアルデヒドはアセテート(酢酸)にかえられます。

アルコール→アセトアルデヒド→アセテートと、体内でアルコールが乗って走るのはすべてA列車です。最終のアセテートはあまさずエネルギー源として人体の各所に運ばれます。

鈍行急行いずれであっても終着駅は体内津々浦々の細胞である。細胞にいたってすべてがめでたく水と炭酸ガスに分解されれば、問題は生じません。ところが飲んだ酒の量が肝臓の代謝機能をオーバーしたときには、代謝しきれなかったアセトアルデヒドはそのまま血中にでます。

この血中を泳いでいるアセトアルデヒドがもたらす症状がすなわち二日酔いだとする人も多いのです。この説にしたがえば、二日酔いの原因の第1は、アセトアルデヒドの毒性です。ただし、この説の弱点は、実際に二日酔い症状がつづいている人の血液を調べてみると、この段階ではすでに血中アセトアルデヒド値がかなり低下しているというところです。

ここで、この説をとるかぎり、飲兵衛たちは幻によって復讐されつづけているということになります。

二日酔いの症状は、ある意味で糖尿痛と似たところがあります。飲んだあとでは血糖値が低下しています。そこで、二日酔いとはかるい低血糖状態、つまりインスリン非依存型の糖尿病とおなじではないか、という説もあるのです。た

しかに二日酔いの症状と糖尿病の症状には共通点が多いのもうなづけます。たとえば、糖尿病の典型的な症状でもっとも多いのは、口の渇き( 口渇)です。激しいときは夜間枕元に水を置いておき、たえず飲まないと渇きがおさまらず(多飲)、したがってトイレに通う回数も多くなります(多尿)。

また、全身の疲れや体のだるさ(倦怠感)を訴えるようになります。脱力感や、足のだるさ、こむらがえりを訴えることもあります。もっと症状が進んで「ケトアシドーシス」と呼ばれる病態にいたったときには、頭痛、悪心、嘔吐などの症状もでるでしょう。

しかし、二日酔いの人に糖を与えても症状は改善しません。そこでこの説にも×印をつける専門家が多いのです。二日酔いの状態では、体内で乳酸やアセト酢酸などという有機酸が増えています。

有機酸が増えると体内の血液が酸性にかたむきます(アシドーシスという)。そこで、二日酔い=体内のアシドーシス説も言われています。

しかし、重曹などのようなアルカリ物質を注入してアシドーシスを補正しても、残念ながら二日酔いの症状はとれません。ついでながら、乳酸は疲れた筋肉中で増える物質だが、この物質が血中でも増加がみられるときは、やはりからだも疲れて
つまり、「飲み疲れ」したときには乳酸が増えます。たいていの場合、疲労が回復した翌朝の時点で、乳酸はふたたび糖質(グリコーゲン)にかわっていますが、大酒を飲んだ翌日には、のこった乳酸が二日酔い症状のひとつとしても起こります。

酒を大量に飲むと、トイレに通う回数が増えます。頻繁にトイレに行けば脱水症状をおこします。二日酔いはこの脱水症状が犯人ではないか、という疑いがもたれました。そこで、二日酔いぎみのときには、とにかく水分補給が第1となる。実際にもこれは有効です。
悪酔い、二日酔いを避ける水の飲み方
だが、これはあくまで結果論であって、それを原因説とみなすのはいかがなものか、と考える研究者のほうが多いのです。最近では、アルコール=ホルモン影響説というのもでてきているほどです。

昇圧物質としてよく知られているものにノルアドレナリンという副腎髄質から分泌されるホルモンがあります。ノルアドレナリンの分泌は一般に強い緊張状態(いわゆるストレス)のあるときに高くなります。

このホルモンには細小動脈(毛細血管にいたる直前の動脈)を収縮させるはたらきがあり、それが血圧を上げているのです。アルコール依存患者の尿を調べると、このホルモンの排出量が増えています。

つまり高血圧ぎみになっているのです。アル中者の心悸元進や頻脈などの症状は、降圧剤の投与で消えます。だから二日酔いもそうなのではないか、という説です。

いずれの説もー長一短の感があって決定打にかけます。つまり、人がなぜ二日酔いをするのかというカラクリは、現状ではまだ仮説の域をでていないのです。

なお、大酒家は、急に飲酒をストップすると禁断症状がでることがあります。逆に、二日酔い状態のとき、アルコールの摂取を再開すると症状が軽くなります。いわゆ「〝迎え酒」です。

ただし、なぜきくのか、その理由は二日酔いのカラクリ同様によくわかっていません。およ飲兵衛たるもの、歳ふり酒を修業の経験をつむにしたがって悪酔いの回数が減り、二日酔いの残る日が多くなるようにも思えます。

とはいえ、二日酔い→迎え酒のくり返しがアル中への道程であることだけはたしかです。

二日酔いに特効薬はあるか

では酔いを遅らせたり、二日酔いを防ぐ手だてというものは、現実にあるのかどうかです。生理的法則からすれば、1回に飲む洒の量を、その人にとって代謝可能な開値内でおさえることしかありえないのです。

つまり、少量にとどめるのみということになるが、これはわれわれ飲兵衛にとってなかなかの難事業。となると、それぞれの臓器ででる症状を、いかにかるくするかというテクニカルな対症療法しかありません。

悪酔い二日酔い、いずれの場合でも、飲兵衛にもっともコタえるのが悪心・嘔吐などの胃腸症状です。まず、この間題から考えてみたいと思います。解決策から先にいえば、よく新聞の家庭欄などで紹介されているように、「飲むときには、かならずなにかを食べる」ということです。
それは副食物が胃腸粘膜を保護するためです。しかし、それだけではありません。食べもの(固形物)が吸収されるためには消化の過程が前提となっています。

胃に固形物のある状態では、下へ順送りされる時間が遅くなり、そのぶんだけアルコールの吸収も遅れることになります。つまり、一度に大量のアルコールが吸収されるのを防ぐことに意味があります。

もっともこのテだけでは、結果的に体内に大量のアルコールがはいったときに、いずれ復讐されるという点で、依然として問題は残ります。

そこで、どうせとるのならもっと積極的に、体内でのアルコール代謝を促進するはたらきをするものをとったほうがよいということになります。そのようなアルコール分解の「お助け物質」としてはたらくものもなくはないのです。

それがビタミンです。より正確にいえばビタミンB1・B2、ビタミンC です。ビタミンB2の多い食品には、ヤツメウナギを筆頭に、焼き海苔、レバー、干しシイタケ、魚肉、ハム、メザシの丸干し、サバの塩焼き、チーズがあります。ヤツメウナギはともかく、あとはどれをとっても十分に酒肴となりうるものです。ビタミンCは緑黄色野菜に含有量が多いのが特徴です。

例をあげれば、パセリ、ピーマン、プロッコリ、松菜、はうれん革、カブの葉っぱ、などです。
、ビタミンC( 別名アスコルビン酸)という酵素は、たいていの動物では体内でつくられるのですが、なぜか人、サル、モルモットには体内にその製造工場がありません。このため、人は飲酒時だけでなく、日常の場でも緑黄色野菜果物の摂取が必要不可欠となります。

成人が必要とするビタミンCの1日量は50mgとされています。たかだか柿は1個であって、レモンなら半個強でまにあう量です。。

そこで、飲酒のときには、事前に柿などの果物を食べる、ないしはアルコールや肴にレモン汁を落としてみることも効果的です。

ドリンク剤にビタミンC入りのものが多いのもそのためです。

肉魚に多く含まれる「システイン」という蛋白があります。このシステインには宿酔の元凶のひとつとみなされているアセトアルデヒドの無毒化作用のあることが認められています。

ただし、ものにはほどということもあります。野菜や肉魚ばかりをもりもり食べたところで、二日酔いゼロというところまでにはいかないのは言うまでもありません。

二日酔いの症状には、一見、糖尿病ふう、脱水症状、一見高血圧ふう、動悸、頭痛、立ちくらみみというように、からだの代謝異常や腎臓障害、循環器障害を思わせるようなものが多いのです。ということは、その解消のためには、それぞれの病気治療に類似した「治療」を要することを意味しているのです。

しかし、成人病であるこれらの症状の治療そのものも、現在の医学水準をもってしても、けっして容易ではありません。つまり予防法も同様であって、有効策はないんのです。基本的には、症状のでたあとに、個々の症状にたいする治療、たとえば頭痛に対しては鎮痛剤を服用する、脱水症状なら水分を多くとるなど、それに見あった方法をとるしかありません。

それ以外によくいわれるあのテこのテは、かりにそう信じておこなう人にとってはきくことはあっても、一般論として語られる場合は、すべてウソだといわざるをえないのです。とはいいながらも、古来から知恵者、酒豪でなる人たちが考察した二日酔い退治の方法を考えてみましょう。

何はともあれまず胃袋の薬、胃薬を飲むことです。それから、何か無理してでもいいから、少し食べることです。牛乳を飲むのがいいとされていますが、牛乳をのんでもよし、迎え酒をするのも悪くないのです。現在、私がもっとも尊重している処方は、熱い番茶に梅干しを入れて、すりつぶして飲むことです。

その梅干しも、小梅ではなくて、熟れている大きない梅干しです、それをぐちゃぐちゃすりつぶして、熱い熱い番茶に入れて飲むのです。これは理論的にも適っているんであって、まことによろしい民間療法です。

後はもう一度繰り返すけれど、忍あるのみです。「梅干し療法」がよくきくと推奨していますが、その前提は胃薬を飲むことです。また、きかなかった際、あとは忍の一字あるのみ、とその効用に限界のあることを認めています。残念ながら、万人に通用する民間療法、特効薬のたぐいはない、というところに行き着きます。

血中アルコール漉度が下がらないと危険

酔うという現象は、血中でのアルコールが人の行動を支配している神経系に麻酔をかける作用です。このアルコールの代謝(分解処理)は肝臓でおこなわれます。アルコールがアセトアルデヒドにかわり、アセテート(酢酸)にかわり、最終的に水と炭酸ガスとなれば、もろもろの悪さの原因も消失することになります。

つまり、陶然とするのも悪酔いするのも肝臓のはたらきしだいだということになります。日本人の場合、成人男性で約1.5kg(女性では1.2kg) の重さをもつこの肝臓への血液の搬入経路には、静脈系の門脈と肝動脈の2本のルートがあります。

その他の臓器や細胞から血液(静脈)によって集められてきた物質は、肝細胞にそのまま送りこまれて、からだにとって都合のよいほかの物質に化学的に変換させられます。肝臓への血液搬入の7割は門脈でおこなわれており、心臓から直接血液が供給される動脈系を通らない。アルコールの搬入もこの門脈ルートです。

肝臓の働きとしては糖質→脂質の変換などがその代表的なものですが、同時に有害な物質の解毒化もおこなっており、薬物などのように本来的に体内には存在しない物質もここで代謝されます。

そして、アルコールも当然しかりです。このようなはたらきをもつところから、肝臓はよく体内の「化学工場」にたとえられます。

さて、この化学工場たる肝臓でのアルコールの代謝には、正確には3段階の過程があります。最初はアルコールがアセトアルデヒドにかわるまでのもので、つぎはアセトアルデヒドからアセテート(酢酸)への過程です。そして、最終段階はアセテート が炭酸ガスと水に分解されます。第一段階のアセトアルデヒドにかわる経路には、およそ3つの経路(系)が
あります。

  1. アルコール脱水素酵素(ADH) による代謝系=ADH 系。
  2. これがメインコースです。ふだん1滴も飲まない人の場合もそうですが、一般の飲兵衛の場合でも飲んだ量の8割以上が、このADH系で処理されています。

  3. メオス(MEOS =ミクロゾームエタノール酸化系)という酵素による代謝系。
  4. おもに薬物を処理している系であるが、飲兵衛の場合ADH系で処理しきれなかったものは、このメオスで処理されています。

  5. カタラーゼという過酸化水素を分解する酵素による代謝系。
  6. じつはこの3の系が実際に働いているのかどうかは専門家の間でも議論が分かれており、2、3をまとめて非ADH系とする説もあります。

一般に、飲兵衛では下戸にくらべてバイパスたる2のメオス系が発達している。理由は明快です。飲酒がそこそこの量(つまり肝臓からみての適量)であれば、本流たる1 のアルコール脱水素酵素だけで十分ですが、飲兵衛では分解許容度をこえることが少なくないのです。

こで、ふだんは薬物などの代謝をもっぱらとする2の系が「助っ人」役をひきうけているということです。ただし、どの経路であれ、「アルコール摂取量」「血中アルコール量」「血中でのアルコールの停滞時間」の3者には相関関係があります。

つまり、酔いの深さと持続時間は、各人の代謝系の能力プラス摂取量によって左右されることになります。第二段階のアセトアルデヒドから酢酸への分解過程は、肝臓内でもアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)という別の酵素が受けもっています。

アセトアルデヒドの九割方は肝臓で分解される。また、ALDHのはたらきはADHの分解能力にくらべて4~5倍と強力です。このため、ここで飲兵衛とってひとつの興味ある現象が生じます。

飲みはじめから2軒目へというあたりまでは、「におい」の項でも述べたように、じつは肝臓内ではアルコールがアセトアルデヒドにかわる時間より、アセトアルデヒドから酢酸への分解過程のほうが早いのです。そこで、計算上、このほろ酔い段階では、血中にでるアセトアルデヒドはきわめて低濃度になります。

分解の活発なこの段階では、本人には酔ったという感覚はまずありません。それで、もう1軒行こうか、ということになります。2軒、3軒とハシゴをする過程でじょじょに蓄えられたアルコールが増えてきて、打ちどめないしは寝ようかというあたりから、体内ではALDHがはたらいて、アルコールがアセトアルデヒドにかえられるエ程と、それ以降のアセトアルデヒドから酢酸、酢酸から水と炭酸ガスにいたる処理工程が、やっと順送りとなっていくのです。

そこで、長時間かけて大量に飲んだときや、2軒、3軒とハシゴをしてALDHによる処理がまにあわなくなった状態では、血中アルコール濃度が急激にたかまっていくことになります。

この段階では、千鳥足から支離滅裂な行動などの酔態が出現してくることになります。くり返しになりますが、神経系に麻酔がかかって足をとられてフラつきはじめるのは、アルコールの血中濃度が0.16~0.3%の段階です。

判断力がややにぶるのはもっとまえの0.02~0.04%のほろ酔い段階からです。ほろ酔いの段階では、飲んだ人の多くは中枢神経に麻酔がかかったという自覚はありません。

吐く息のくささもわずかです。まあこの程度ならネズミ捕りにかかるはずないと勘違いします。くわえて、精神が大脳の支配をはずれてへンに高揚しているため、麻酔が知覚運動神経におよんでいるとは思いません。

車に乗る。と、どうなるか。飲酒運転者は、車に乗った時点では頭のネジがはずれているという自覚はほとんどない…となります。

酔うとトイレが近くなるのは

飲酒と切ってもきれないのがトイレが近くなってしまうことです。この生理現象はどのようなカラクリにもとづいているのでしょうか。

人のからだに含まれる水分量の総和は、体重のおよそ6割です。脂肪の多い人や逆に枯れた高齢者ではやや少なめとなるが、それでもその人め水分比率はつねに一定です。
体内での水分比率は、人によって多少の差はあっても、日々の食事量や夜ごとの飲酒量などで、持ち主の意思や勝手都合でかんたんに変動したりはしません。

体内水分のはいる量とでる量はつねに等量で、からだが不要と判断したぶんは、腎臓機能が正常なかぎり自動的に排出されるしくみです。また、水分の排泄機構のほうも、かならずしも尿だけが担っているわけではありません。便で少々、あとは「不感蒸泄」として汗と呼気(吐く息)ででています。

汗をかくほどに大声をだせば、のども渇く理屈でもあります。水分がもっとも多量にでている場所はじつは口です。われわれが日々とっている水分量のうち4分の3までは、なんと呼吸作用に(鼻腔、肺、気道などの潤滑剤として) 使われています。

医者は体内水分のことを「体液」といいます。血液や精液もその一種です。この体液(体内水分)は、細胞膜の内側にある液、つまり「細胞内液」と、それ以外の「細胞外液」の2つの領域に分別されます。体内にある水分の3分の2は生命の基礎単位としての細胞内液で、残りの3分の1が細胞外液という構成です。

この細胞外液量のコントロールに関与するカラクリには、腎臓での血液のうごき、それにからむ神経系(交感神経系)のはたらき、血中および体内随所にある各種のホルモン関与、と3つの要素があります。細胞内液と細胞外液はつねにせわしなく出入りしている。仕掛けのもとは細胞膜の内と外の浸透圧の差です。

また、そのコントロール役をしているのは外液側にあるナトリウムと、内液側にあるカリウム(厳密にいえばそれぞれのイオン濃度)です。ふだん内液と外液は等張(おなじ濃度)に保たれている。ところがときとして濃度に差がある状態になることがあります。

たとえば、暑い日ざしのなかを歩いたり、運動をしたようなときには、だれしも汗をかくでしょう。このようなときには、発汗によって体内の水分量が奪われています。逆に、からだの側では「予期せぬ」水分がはいってくることがあります。まさに飲酒時です。

しかし、生身のからだは凍り豆腐やクサヤの干物ではない。細胞は水分が多すぎても少なすぎても正常な活動ができないのは言うまでもありません。
だからといって、細胞内の水分量を勝手に絞りだすわけにもいかきません。そこで、細胞内の水分が過剰になると、外液の濃度を高くしてよけいなぶんを外液側ににじみださせて、水ぶくれを防ぐ仕掛けとなっています。

いってみればこれが尿の原液となります。この水分の体外排泄メカニズムでは、とりわけ外液側にあるナトリウム(塩分) の濃度と量がポイントとなります。ふだんは高血圧や脳卒中の元凶と、とかく嫌われもののナトリウムですが、こと体内では貴重なはたらき手です。

とにかくこれなくしては水分の体外排出機構が成り立たないからです。生体が正常に機能しているかぎり、体内でのナトリウム濃度はつねに一定に保たれています。

ナトリウムが不足ぎみのときには尿をつくる段階で、腎臓の糸球体という器官が濾過して尿細管できっちりと回収しリサイクルします。体内はすぐれてエコロジカルな構造なのです。
塩気の多いものを食べた場合、よぶんのナトリウムは尿にほうりだしてしまいます。そしておよそ5日もたてば、体内ではちゃんと以前のナトリウム濃度に回復するしくみとなっています。

体液中のpH(アルカリ・酸性度) も水素のイオン濃度によってたえず7.4 と弱アルカリ性に保持されています。ところで、体液のpHが弱アルカリであるところから、アルカリ食品はからだによいという人がいます。そのこと自体は間違っていないのですが、エスカレートして、酒を飲むときにも、アルカリ度の高いもののほうがからだにいい、と早合点する人がいますがこれは間違いです。

しかし、別段、辛口の清酒を飲もうが、ワイン(アルカリ性の洒〉を飲もうが、梅干し(アルカリ性) を肴にしようが、体内でのpHレベル(酸塩基平衡)は不変であって、人体におよぼす影響はまったくないのです。

酔いざめの水のうまさよ

細胞内の水分量を調節している浸透圧は、じつにデリケートな働きをしているのです。1%も変動するとからだが大混乱をおこします。これは、飲みすぎたときの血中アルコール濃度度どころの比ではないのです。浸透圧のはたす役割は、もっと根源的な生命維持とかかわりをもっており、pHレベルはじつにに少数点ナン桁というところで、つねに自動的に微妙にコントロールされているのです。

したがって、ごくわずかな変化が生じても、生命に危険がおよびかねないのです。それはおいておくとしても、たとえ眠っているときであっても、体内ではたえまなくこの調節活動が継続しています。

一例をあげれば、人の細胞総数は60兆個にもおよびます。いわゆる新陳代謝によって、体内では1日に2%の細胞が入れかわっているのです。

ひとくちに2% といっても1兆2千億個です。この結果でてくる老廃物は、尿と便で排出されることになります。これが外的条件で変化させられるケースがでてくるのです。

たとえば、炎天下の街路を汗ダクになって歩いているような場合、当然、からだの皮膚表面では不感蒸泄が活発となるのは当然です。体内からは水分が失われていきます。失われるのは細胞外液の部分です。そこで、しだいに外液は濃縮された状態になって内液と外液の浸透圧に差が生じてきます。放置したままだと浸透圧の差はますます大きくなります。

そこで、その差をなくすために細胞内の水分を放出することになるのです。内液からこれ以上絞りだせないというところまできては、生命が危険です。そこで、細胞にとってこれ以上細胞内からはだせない点、つまり「警戒水域」にはいった段階で、体内随所に張りめぐらされたレセプター(受信器)がすばやくキャッチして大脳に警報をだすのです。

このときセンサー役をはたすのが、大脳の視床下部というところでつくられている「バソプレッシン」(ADH)という抗利尿ホルモンです。
抗利尿ホルモンとは名の示すとおり排尿を妨げるはたらきをするホルモンです。警報受信後にこのホルモンが分泌活動をはじめると、それに連動して腎臓がそれまで体内水分からせっせと絞りだしていた尿の生産をストップさせます。

このとき、バソプレッシシは同時に大脳にたいしても、のどの渇きを示すシグナルを送ります。これが脳に伝達されると、脳内にある口婦中枢というところが刺激されます。その刺激にこたえて、われわれは水を飲みあmす。

とりこまれた水分は細胞外に水分を放出して瀕死状態の細胞内に必要な水分を補給します。体液全体の浸透圧が下がり、細胞内外の液が等張になった時点でバソプレッシンの分泌も低下し、腎臓も尿の濃縮作用を止めます。

これがただの水の場合は、補給された時点で口渇中枢への刺激がとまって、美味しかったなでおしまいです。
では、アルコールの場合だとどうなるのでしょうか。

じつは、酒を飲んでいるときには、抗利尿ホルモンの分泌機能はあまり作動していないのです。頻繁にトイレに行って外液を排出しているにもかかわらず、腎臓での尿の濃縮化(体内水分の再吸収)作用も止まっていることを意味します。

腎臓が水分の再吸収を忘れるのは、アルコールそのものに利尿作用があることも影響します。つまり体内の余計な水分をはやく放出してしまえとアルコールみずからが要求するからです。
だからといって、アルコールに命ぜられるまま放出をつづけていれば、やがては前に二日酔いのくだりでも述べたように、かるい脱水症状につながっていくことにもなります。

そこで、シラフにかえったころには、細胞内では浸透圧が上がった状態がふたたびくり返されるという現象が起こっているのです。ふたたび口渦中枢が刺激されます。この段階では(気分のうえでは二日酔いぎみなこともあって)、たいていの場合、冷水を飲むことになります。

脱水状態での水分補給は、通常の場合に倍してからだが反応する。これが飲兵衛にはおなじみの覚せいの水の味わい、それにつけても「酔いざめの水のうまさよ」となるんです。

ちなみに、腎臓の専門家は、抗利尿ホルモンの分泌をストップさせていれば、毎時1.2Lの水を飲みつづけていても、人体からは同量の水が排泄されると証言しています。

この伝でいえば、体内にアルコールを入れひんばんにトイレに通うケースとは、当然、抗利尿ホルモンの分泌が抑制されている状態だということになります。

かなり手のこんだ話となったが、ようするに体内ではナトリウムが浸透圧を微妙にコントロールしているということがなんとなく理解できれば、とりあえずよしということにしておきたい。ともかくアルコールをとったときのトイレ現象と、酔いざめの水のうまさの関係をかけ足で説明すると以上のような理屈となります。このはたらきをつかさどる最大の臓器は腎臓です。このとおり腎臓のはたらきは巧妙にして精微です。

そこで飲兵衛はすべからく腎臓に感謝、乾杯の義務を負うべきでしょう。また、このようなからだのしくみ、巧まざる「摂理」が、人すべてが備えているホメオスターシス(生体恒常性)なのです。

酒+肴=肥満

話題を、液体から固体つまり「肴」のほうへとかえましょう。では、ものをいっしょに食べながら飲んだときには、どういう事態が生じるのでしょうか。

いったい酒を飲むと、熱量すなわちカロリーはどうなっているのでしょうか。アルコールには1 g あたり7kcal(正確には6.7kcal )の熱量があります。

しかし、肝臓でそのまま熱として燃やされるのはそのおよそ3分の1程度で、あとの3分の2は肝臓外でのエネルギー源にまわされているのです。

酒を飲んだとき、その熱量をからだ全体が利用するのはもっばら後者のほうなので、したがって、アルコールの熱源としての利用効率は正味65%程度ということになります。
残りの35%は、肝臓にたいする税金のようなものと思っておけばいいでしょう。
いずれにせよ、この65%×アルコール量(g)×6.7kcal が、その日の飲酒でとった総カロリー量だということになります。

カロリーではなくて、肝臓の代謝能力からみた場合、平均的な飲兵衛の24時間での上限は、純粋アルコール換算で160 g程度(日本酒なら6合、ウィスキーではボトル半本というところ)です。

その算定基準の根拠は、くり返すように、成人でのアルコールの平均代謝量が体重1 kgあたり一時間0.1gです。したがって、160 gというのは体重65 kgの人での計算です。

これはどんな人にでもあてはまる計算であって、巨漢であれば、物理的にはもっと大飲可能という理屈にもなります。しかし、かりに日本酒6合程度が飲むほうの上限だとしても、飲兵衛の場合には、看でとるカロリーがプラスされます。

ということは、これまた単純計算ではあるが、アルコールの熱量(×65 %)に食べた肴の熱量がプラスされることになります。

あとの具体的な計算は個々の飲兵衛におまかせするとしても、たいていは太る理屈となります。

ところが、これとは反対に、いわゆる「やせの大食い」ないしは、ツルのようにやせた大酒家たちもいます。この人たちはなぜ太らないのでしょうか。

肥満の原因は、カロリーオーバー(摂取量が消費量を上まわる状態)とあわせて、太る因子をもつ細胞の数や大きさなどの性質が関与すると説明されています。

いわゆる体質的なものですが、これはかならずしも先天的なものだけではないのです。人並み以上に飲み食いして、しかも、ふだんあまり運動らしい運動もしてないような人たちがいます。まことに不思議というほかないが、彼らが太らない理由を、まだわたしは知りません。といったところから話を少し軌道調整しましょう。

ものを食べる際の基本は、中学校の教科書でも「からだの血となり肉となり活力のもととなるもの」と書かれているように、糖質、脂質、蛋白質のいわゆる「三大栄養素」です。これらの栄養素は生きていくうえで欠かせぬ要素ですが、体内ではそれぞれ、目的に応じて必要とされる物質に交換しています。

つまり自在に分解、合成をやっているということです。なお、人を含めすべての哺乳類にとって、この三大栄養素の理想とされる熱量摂取比率は、糖質70% 、脂質15% 、蛋白質15 % です。(いうまでもなく、アルコールはそのいずれからも排除されており、ただカロリーを増やすのみの存在です。)。

体内で融通無碍にかたちをかえるからといって、栄養素はひとつだけとっていればすむというわけにはいかなでしょう。

たとえば、糖質の体内での名称はグリコーゲンです。1粒で300 m走るグリコの広告からもわかるように、糖質(および脂質) はもともとがエネルギー源です。ですが、蛋白質だけは別格です。これはからだの構成要素にまわります。したがって、蛋白質だけは1日に体重1 kgあたり1 g弱はとりつづけていないと、からだが壊れてしまいます。

ここで、飲兵衛にもうひとつご注目いただきたい点は、食べものをとった際の、肝臓のアルコール代謝能力との関連です。医学界で報告されるこのたぐいの検証例は、おおむねがネズミを使った実験です。
昔からネズミが米を食う話はあっても、酒盛りや宴会をやるという話は、せいぜいがおむすび転んでジイさんが酔っぱらうというお伽噺程度で、ネズミ=アル中説というのもあまり聞かない話です。そこで、飲兵衛にひとしくあてはまるかどうかは定かではないのですが、食べものには肝臓を元気づけるものもあれば、その道に痛めつけるものもあるという話を一例として提示しておきましょう。

ネズミを元気づけたのはやはり蛋白質です。研究者の実験では、アルコールと同時に高蛋白質を摂取させたネズミは、アルコール脱水素酵素(ADH)系が活性化して、難なくアルコールを分解しました。これにたいして、同様の条件下で低蛋白質を摂取させたネズミは、ADH系の活性がいちじるしく低下したと報告されています。

つまり「悪酔い現象」をおこしたとみなされるわけです。ところが、どちらの群においても、メオス(MEOS=ミクロゾームエタノール酸化) 系の活動を調べてみると、蛋白摂取の多少とは無関係であったという結果がでました。つまり、酒びたりにさせた「アル中ネズミ」のメオス系は、食べものとは無関係にただただ黙々とアルコール代謝に励んでいるわけです。

これらの「アル中ネズミ」をあとで解剖してみると、低蛋白質のネズミのほうがよりつよく「脂肪肝」ようの病変、ないしは「肝細胞周囲の線維化」が見られました。ついで蛋白質のかわりに脂肪をあたえた場合はどうかといえば、これはアルコール代謝とまったく無関係でしたが、酒びたりネズミでみるかぎり、高脂肪食をとらせた群では肝細胞にいちじるしい脂肪化がありました。

すなわちネズミといえども脂肪の含有量の多い食事ばかりしていると脂肪肝になるのだぞ、というのがその筋の研究者の警告です。

そこで、問題の第1は、低蛋白食下でのアルコールの摂取です。このような飲みかたは肝臓本来の代謝機能を低下させて、もっぱらバイパスであるところのメオス系に依存させることになります。問題の第2は、栄養のバランスの失調下でのアルコールの摂取は肝臓障害を促進するという点です。

したがって、洒を飲むときには、つねに蛋白質の豊富な食べものを口にいれながら、そこそこで打ちあげるのが無難だという結論になります。

肴はあぶったイカにとどめをさす

すぐにからだの構成要素にまわされる蛋白質のほかに、人体内ではどうしても合成不可能なものがります。こればかりは外からとらざるをえない、欠くとからだにガタがくる「微量成分」という存在です。

医学や栄養学の世界ではこれを「必須栄養素」といい、目下のところ40余種が知られています。まずは前にもふれたナトリウムやカリウム、それに鉄分やヨードなどの元素類。
リシンやロイシンなどの必須アミノ酸。リノール酸、リノレイン酸などという必須脂肪酸。くわえてビタミン類です。

たいていは必須必須と、テレビ、新聞、雑誌などの広告でおなじみのものです。したがって、からだの都合を優先させれば、先の三大栄養素を含めて、栄養士お定まりのセリフではないが、どうしても「バランスよく栄養のかたよりがないことが望ましいのです。ということになります。とくに生体の浸透圧との関連からいえば、無機質が大切だということになります。

亜鉛不足が味覚音痴をまねくことは周知のとおりですが、いくら必須栄養素とはいえ、人体に必要なのはごく微量です。さほど神経質にならずとも、ふだんふつうの食事をとってさえいれば、ビタミン類も含めてたいていのものは自然にとれるので、無視してもまずさしつかえはないでしょう。

栄養障害によって病気になるのは、いうまでもなく、その摂取量がからだにとっての必要量を下まわったときです。栄養障害にはこまかくいえば「低栄養状態」と「栄養失調」の2つがあるのですが、純粋に栄養障害だけによっておこる病気は、現在の日本ではほとんどみらません。

そこで、しいてアルコール愛好家で問題がおこると考えられるのは、低栄養状態です。低栄養で生じる病的な現象は、くどくどと口うるさく述べてきたように、蛋白質の欠乏とカロリー不足です。

極端に病的なものを専門家は「蛋白質・カロリー栄養失調症」と呼んでいます。飽食ニッポンで、このような失調症がみられるケースはほとんどありません。しかし、病的アル中のかたや食物アレルギーぎみのかたがた(病的偏食者という)では疑われるケースもあります。

洒の飲みすぎによる過剰水分は腎臓の濾過機構によって排泄されます。塩辛い肴を食べた場合や不要の塩分とて同様です。そこで引き算していくと、のこる問題で最大要因は蛋白質の摂取不足だけということになります。

したがって実際に問題が発生するのは、病的アル中のかたと病的偏食者がドッキングしたケースか、それに似たライフスタイルのかたがたということになります。

ついでに、飲兵衛の日常偏食ぎみのかたがたの飲食についてもひとことふれておくと、現在の食生活では蛋白質の代替食は十分です。

そこで、偏食による弊害は赤ん坊や小児では認められても、30をすぎた人間の健康に影響をあたえるほどの弊害はほとんど見あたりません、
現在までのところ、わたしの知るかぎりにおいて「飲酒+過食」の弊害を指摘するものはあっても、肴が貧しくて栄養障害をおこしたという事例は、鳥のエサのような肴だけに頼って大酒する人たちだけです。

ふだん1日3食をとっていれば、まずは心配無用です。あえて「肴」に関連づけていえば、なにを食べようと大丈夫ということになります。気配りすべきポイントは、良質の蛋白を過不足なくとるということだけといいきってもよいでしょう。

良質の蛋白とは脂身の少ない肉、魚。また豆腐などの植物食品でとれる蛋白成分です。

専門家がひとしく推奨する基準は「高蛋白、低脂肪、ビタミン豊富」の3原則です。わたしとしては、カロリーオーバーを防ぐ意味あいから、これに「低カロリー」をつけくわえのがベストです。

油脂の含有量の多い洋風、中華の「料理」は避け、基本的には和風がいいでしょう。それも魚屋よりは乾物屋の品書きに注目するとよいでしょう。

肴は古来からの和食や惣菜、たとえば、冷やっこや湯豆腐、メザシ、小魚、なべもの、あえもののたぐいでよいでしょう。手間ひまかけずとも、できあいのお新香、シラスおろし、あぶったスルメや海苔もまたよしです。

いうなればお晩菜で十分なのであって「多種にして少量」であることにつきるんです。ともあれ、飲兵衛をもって任じられるかたがたは、ALDH ( アセトアルデヒド脱水素酵素)の活動が活発です。よってついつい深酒ともなります。飲む年数が長くなるにしたがって、肝臓のアルコールへの馴れ化機能も上がってしまうのです。

飲兵衛には避けて通ることの出来ない「アル中」について

アル中

ほんの少し酔ったあとの落とし穴

酒を飲むと酔うのは当然です。きわめて当然のなりゆきです。酒を飲むのも、この酔いあってのことといえるでしょう。
まず、この「酔う」という現象から考えてみましょう。

「酒に酔う」連想ゲームよろしく酔いよいことばをかさねていけば、酒はこころをま酔わせる。迫真の演技に酔う。人(込み) に酔う。朋友との語らいに酔う、と際限もなくつづくが、その場面や状態で酔い心地はよくもわるくもなります。

この「酔う″」というこころのありようには、どこかめまいと似ているところがあります。酒にからめとられて目のまわる気分。
いうならば天にも昇るここちから一転して悪酔いや二日酔いの地獄におちいるターン・オーバー・ポイント、じつに一瞬の変化であることは、飲兵衛を自負されるかたがたはほとんど経験ずみのことと思われます。

かし、このような愉しみとしてのめまいが、突如「悪夢」にかわる現象は、洒を飲んだときだけにおこるものではありません。
シラフの状態でもしばしばみられるものです。その代表例は子どもの好きな遊園地での遊具の数です。メリーゴーランドやブランコ遊びにはじまり、ジェットコースターから宇宙遊泳まで、快感としての「めまいの遊び」がズラリそろえられていいます。
が、遊び疲れての帰りの車中で、子どもが車酔いして手こずった人も多いはずです。

からだにはおなじ作用のはずであるにもかかわらず、楽しみと感じるうちはこころが高揚しています。その一点をすぎる、ないしは楽しみと感じるこころがなければ、吐き気をもよおすほどに苦しむことになるのです。

まことに摩訶不思議としかいいようのない現象ですが、その一因は生理学的には平衡感覚の問題にあるのです。

酔いの出発点といえば、当然「ほろ酔い」です。いわゆる1杯機嫌の状態です。少量のアルコールが体内にはいったあとの、身もこころもとろけていくようなあの感じは、飲兵衛にとっては、まことにいいようのない解放感のはじまりです。

疲れがとれる。すなわちそれまで緊張をしいられていた筋肉が弛緩しはじめます。シラフの状態では寡黙、まじめで通っていた方々の口もしだいにほどけてきます。つまり、精神的緊張がほぐれてきます。

からだが温まります。体内に注入されたアルコールがエネルギー源としてはたらくぼかりでなく血管を拡張します。そこで、心臓の機能も活発になり、からだの深いところから37度に温められた血液が、皮膚表面ちかくの末梢血管にむかって一気に駆けのぽってきます。

ちなみに、このほろ酔い状態とは、医学的には「アルコールの血中濃度が0.05~0.25% の段階です。これは日本酒でいえば1~3合、ビール大瓶だと1~3本程度を飲んだ状態になります。う

ほろ酔い、この状態を、古人は「羽化登仙の境」といいました。羽が生えて仙人のごとく空にものぼるここちです。ところが、飲酒の初期段階のこの楽しい状態は、生理的にいえば位置・運動の錯覚現象であって、まぎれもなくめまいの一種です。

酒を飲んだときに体内でどのような現象が生じるのか、かんたんにいえば、アルコールの人体におよぼす作用の本態は「麻酔作用」にあります。酔ったときというのは、からだ(とくに大脳)にかるい麻酔作用がかかった状態と同じだと理解してください。もっと正確にいうと、ほろ酔い状態とは、アルコールの麻酔作用によって、大脳の下部に位蜃する脳幹から脊髄にかけて広範な領域を占めている「網様体」というコントロールセンターの統制がきかなくなる状態のことです。

このような状態では大脳皮質の活動がおさえられます。からだにとってはもっとも原始的なコントロール器官ともいうべき網様体の機能がストップするため、連動して思考や判断力をつかさどっている大脳皮質の機能が正常にはたらかなくなるわけです。

これがほろ酔いの出発点です。つまり、シラフの状態のときは正常に判断し、からだにあれやこれやと指示をあたえている大脳皮質のはたらきにブレーキがかかることになるのです。普段は誠実な人が支払いの段階でグダグタになるなどです。

青くなるのはシラフにもどった状態からであって、網様体、大脳皮質ともども抑制が解除された状態では、心身ともにハイの状態になっています。こうして大脳皮質の活動がおさえられはじめると、抑制はしだいに、全身の運動領域をコントロールしている神経系にも影響がおよんできます。飲むほどに、この麻酔作用も次第に強くなります。

めまいのカラクリ

だいぶ前おきが長くなりましたが、ほろ酔い状態で、麻酔作用が神経系におよび、足と眼に影響があらわれたのが、千鳥足であり、天井がまわりだす現象なのです。

足の神経に影響がでたとき平衡感覚が失調します。これはほぼ同時に眼の神経にも影響してきます。後者の現象のことを医者は「回転性めまい」といいます。

ちなみに、千鳥は左右の足の踏みどころを違えて歩く、その足つきがすなわち千鳥足です。つまり本人はまともに歩いているつもりではあっても、第三者からみると、なんとも危なっかしい足どりということです。

こうなるのは、もちろん足の神経系が乱れるためですが、それに天井がまわる現象があります。つまり眼の神経系の乱れによってもたらされる回転性めまいが加わることによって、あっちにふらふら、こっちにふらふらはさらにきつくなります。

なお、ほろ酔い現象についてさらに度をすごしたときには吐き気(悪心・嘔吐)をもよおすことになります。

この悪心・嘔吐現象は、神経系の乱れにくわえて、アルコールが体内で分解される過程で生じる「不快物質″」が悪さをすることでさらに強くなります。

まず、問題はめまいです。では、この回転性めまいとはなにかですが、この回転性めまいはシラフの状態でもおこることがあります。

本態は酔いなのだが、洒を飲んでいなくとも悪心・嘔吐がおこることがあります。乗り物酔いです。長く乗り物に乗っているときなど、本人の意に反した動きが長くつづくと耳管の前庭機能(三半規管のはたらき)が失調します。

ただし、このような現象は、その乗り物を本人が意のままにうごかしている場合はおこりません。したがって、かたわらに乗せた子どもたちが酔うことはあっても、ドライバー自身が乗り物酔いをおこすことはないのです。

飲んだ状態では乗り物が異なります。飲兵衛が乗るのは自動車のような物理的な乗り物ではなく、本人の意識の内にある「こころの高揚路線」です。

ところで、めまいは平衡失調以外でもさまざまなメカニズムでおこる。浮動感(ふわふわ感)や動揺感(ゆらゆら感)、あたかもエレベーターにでも乗っているかのような昇降感・身体下降感、立っているにもかかわらず、からだがつんのめるような転倒感など、医者が「非回転性のめまい」と呼ぶ一群のめまいがあります。

めまいは運動感覚の異常、位置感覚の異常、その他のもの、に類別されているが、もっとこまかく分けると、自分がまわる(回転感をおぼえる)のが「回転性のめまい」であり、浮動感・動揺感、昇降感・身体下降感、転倒感をおぼえるのが非回転性のめまいです。また、回転性のめまいのことを真性めまい、非回転性のめまいを仮性めまいと呼びます。

いいかたもあります。いずれのめまいであっても、ほとんどはなんらかの病気の兆候でうが、羽化登仙の段階ではこのような病気としてのめまいも少なくありません。

たしかに人が酒を飲むのは酔うためです。病的なうつ状態で飲むときは、精神的な落ちこみもあって、たいていはあまり酔えません。

その理由を説明すると次のようになります。

うつ状態とは、医学的には「極端な気分の低下によって生命活動そのもののエネルギーが失われている状態のこと」だとされています。

うつ病の本態はまだ十分に解明されていないのですが、このような気分や感情に障害のあることを示すうつ状態では、脳内では感情や睡眠に関係する細胞(モノアミン神経細胞)のはたらきの低下とともに、末端の神経から脊髄の神は経細胞を経由して視床下部→大脳皮質へと伝わっていく神経系の回路に破綻が生じていると推定されています。

ひとことでいうと、神経伝達に関与するさまざまな「受け皿」(受容体) が故障したり、回路がショートぎみになっていて、正常な神経機能そのものが作動しなくなっているのです。

肝心の神経伝達がすでに故障ぎみにある状態では、酒を飲んでもそれが精神の「賦括剤」としてはたらいてはくれません。

現象的には逆にシラフ状態でおこっていためまいが解消されることも知られているほどです。だが、このような場合、おおむね悪酔いないしは宿酔( 二日酔い)がのこってしまいます。

うつ状態、ないしはこころの憂さを捨てるために飲むときは、飲むことによって一時得ら一れるはずの快楽が得られず、宿酔地獄に見舞れてしまうということです。

飲むと肴がうまいは嘘

ところで人が酒を飲む楽しみのひとつに、酒の肴があるのは言うまでもありません。では、アルコールと味覚の関係はどうなっているのでしょうか?

酒を飲むと食欲増進作用がはたらくことは、言うまでもありません。事実、アルコールは酒精度8%以下であれば、胃酸の分泌をうながして胃壁も荒らすこともありません。そこで食欲増進剤として利用されることになるのです。

会食に酒がつくのもこのためなら、われわれが日々とっている晩酌も、疲れをいやすことと同時に栄養素の体内へのスムーズな搬入のためでもあるのです。

このことは別の面の弊害もあるのですが、とりあえずその話はおくとして、ここではあまり知られていないアルコールと味覚の作用についてです。

人間には目・耳・鼻・舌・肌の五感があります。生理的感覚(五官)に直せば視覚・聴覚・喚覚・味覚・触覚です。今日では、文明そのものが五感、五官のすべてを衰退させつつあるとの指摘も多くなりました。

ですが、目・耳・鼻の衰えには自覚はあっても、舌の衰えというのはとかく意識しつらい特徴があります。気づかずに、むしろ自分の嗜好ががかわったと思い込んでしまうこともあります。

その自覚があって、人知れず悩まれているかたがたのために助言しておけば、訪れるべき診療科は耳鼻咽喉科です。したがって、先のめまいの話につづいて、味覚のカラクリをとく鍵も耳鼻咽喉科の領域にあります。

耳鼻咽喉科の専門医によれば、味覚異常の悩みをもつ人は案外多く、学会で報告されたところでは年間およそ2万人の受診者があるというのです。しかし、味覚異常の治療が耳鼻咽喉科であることを知らず、内科に行ったり、本人に自覚がなく放置されている者までふくめれば、5万人程度いるのではないかとも推測されています。

内訳を男女で分ければ、男2人に女3人と、じつは女性のほうが多いのです。

味覚音痴が増えている

味覚音痴をうむ原因について、いま先端医学がとらえているのは亜鉛の摂取量不足です。といって、亜鉛そのものを直接とればよいという単純な話ではありません。

にきび、風邪、糖尿病、老化防止まで、現代人が必要とするミネラル「亜鉛」

人の体内には地球上に存在するほとんどの元素が含まれでいます。元素には多く必要なものと微量でよいものがあるのですが、後者のほうを「微量元素」といいます。

亜鉛はそのひとつです。参考までに、おもな微量元素をあげておけば、鉄、ヨウ素、銅、マンガン、亜鉛、コバルト、モリブデン、セレン、クロム、スズ、バナジウム、フッ素、ケイ素、ニッケル、ヒ素、カドミウムなどです。

一見しておわかりのごとく、毒物ではないかと思われるものばかりである。たしかに大量にとればからだが壊れるものばかりですが、きちんととれていないとからだに悪いことも立派に証明されています。

ちなみに、味覚障害の専門家があげる必要亜鉛摂取量は、体重その他、人それぞれ条件はヰ多少異なりますが、1日あたり10~15mg程度という範囲です。

この程度ならふつうに食べていればとれる量ですが、現実にとれていない人が5万人程度いるということは、いまの日本人の食生活がゆがんでいることを証明しています。

では、亜鉛含有量の多い食品とはどんなものでしょうか、これがじっに平凡。例をあげれば、緑茶、カブ・大根の葉っぱ、煮豆・納豆・豆腐などの豆類、白米。

動物性食品でいば牡蠣、レバー、小魚などです。つまり、気どってグルメ噂好の食品をあさるより、われわれ(とりわけ中年族)がアルコールの友とする肴のほうが、味覚の正常化には正解ということになります。

なじみの酒場でつきだし、おふくろの味のたぐいの食菜です。さらには鍋のタネ、ヤキトリのタネ、あわせて、ほろ酔いあとのあの美味なるお茶漬けサラサラもいいでしょう。

肝機能の衰えにも動ぜぬ庶民派の飲兵衛は、出費ささやかにして、はからずも夜ごと「医食同源″」を実践しているというわけです。

ついでながら、味覚については、グルメの元祖ともいうべき『美味礼讃』という古典的名著がある。『美味礼讃』にも人間の五感・五官に対するさまざまな考察がおこなわれているのですが、味覚の中心は舌覚にあるとといています。
ただし、それだけではたりず、頼・口蓋・鼻腔も大切だと記録されています。すなわち、味覚を補佐する喚覚中枢である鼻腔や、唾液、またそれを供給する頼の役割が重要なのです。

あわせて、味覚を倍化させるアルコールのはたらきもお忘れなく、とも述べられています。

しかし、現代医学のとらえかたはもっと精密である。専門医学書には「味覚とは、口腔内に舌面、口蓋部、咽喉頭部の特異的な受容器、すなわち味菅と化学物質の接触によっておこる感覚」のことだと書かれています。ひとくちにいえば、舌や口蓋部(とくに奥のほうのノドボトケのうえあたり)にある専用のセンサーとしての味菅(味細胞) が、味を感じとっているのです。

アルコールが舌をにぶくする

では、この味覚が正常はどの程度までかということを厳密に追求していくと、アルコールという因子をはさんだ場合、思わぬ事態が生じてくるのです。日本酒の等別をきめる際には「利酒」ということがおこなわれます。

洒をきく際には酒を飲んだあと1回ごとに水で口のなかを洗います。水で洗うのは舌の感覚をゼロにするというより、唾液などの影響を排するためです。

じつは、この原理と方法は「味覚音痴」になった人たちにたいしておこなわれる味覚(味膏機能)検査も同じです。

検査時には薄く味をつけた水(試液)が使われ、その味を感じとることができるかどうかが調べます。味覚機能を測るためには、試液の味は薄ければ薄いほどよい理屈となります。

そこで、たとえば塩味をきき分ける際には薄い食塩水を用いますそのあとは利酒と同様に水で口腔内を洗います。その際、正常な感覚者の舌は水を甘く感じたり、ときには酸味や苦味として感じるのです。これが正常なのです。

つまり、水にも味があることになります。

もっと身近な例でいえば、苦いものや酸っぱいものを食べたあとに飲んだ水は甘い味がします。たとえば、砂糖水のようなもので甘味にしばらく舌をならせたあと、水で口腔内を洗う。そのあと薄めのコーヒーなどを飲むと、同濃度のカフェイン真のものを最初に飲んだときより、はるかにつよく感じられます。これは塩味、酸味の味覚検査についても同様で、「交叉増強」といいます。

舌の感覚とは、かくも微妙にできているのです。ここでふたたびアルコールの話にもどりましょう。舌に特定の刺激をあたえつづけていると、しだいに味覚はにぶってきます。

この現象を「順応」というのですが、アルコールをとりつづけている場合、当然、この順応がおこります。しかもアルコールの刺激はかなりつよくなります。そこで、ことにレストランでの会食時などでは、この現象が問題となります。

先の味覚検査のルールからすれば、Aの味のする料理をとる→水を飲む→Aとことなる味の料理をとる→水を飲む… と、くり返していけば、舌の感覚は鋭敏度が高くなっていきます。

しかし、アルコールがはいった場合には、おおむねこうはいきません。料理のでる間隔やその日の心情によって、たいていはアルコール搬入のほうのピッチが上がります。アルコールによる順応が先行して、最終コースにはいったころには、自分がなにを食べているのかわからなくなったりするのです、飲兵衛の場合には通例となりがちです。

したがって、この理屈からすると、料理とともに酒を飲む場合には、本人が美味いと思っているのは舌の感覚ではなくて、多分に心理的なものだということになります。少々つらいところですが、よく飲兵衛がいうところの「飲むと肴が美味くなるのだ」という理屈は、舌のもつ順応の仕組みからすると原理的に成り立ちません。

もっとも、重ねてグルメ元祖の高説を引用すると、彼は「食味に際しては、ゆっくり食するのが「選ばれし者」 つまりグルマンディーズ(美食愛)のこころをもつ者の必須与件である」といいます。

「味覚は順時刺激をうければ、風味幾重にもあることのかぎ分けも可能となりますが、そそくさと食べる者にはグルメの資格なし」と警告しているのです。ただし、からだの理にもかなった託宣というべきであろう。

一気飲みはうまくない

人が酒を飲む最大の理由は、いうまでもなく洒そのものの「うまさ」にあることは間違いありません。しかし、このうまさは一朝一夕にしてわかるというものではなく。よく知られているように味覚には甘味、苦味、酸味、塩味の4味があります。

この舌の味覚領域に関して、科学的な観点から4つのジャンル分けをしたのはへニングというドイツの心理学者で、今世紀はじめのことです。

すなわち、甘味=舌先部、苦味=舌根部、酸味=舌側線部、塩味=舌の中央部を除いて均一というものですが、今は、苦味は舌側線部でも感じていることも確認されています。

洒の味は、説明するまでもなく、原料や酒造法によって微妙に異なります。

たとえばビールは苦味がつよいのが一般的です。ご存じのように幼児は苦味が苦手です。したがって酒を味わうためには、基本的にこの苦味がわかる年齢に達していることが前提となります。

とりあえずは、どこかの時点でアルコール初体験がおこなわれることになるのですが、やっかいなことにアルコールと名のつく液体には「度数」の強弱が伴います。

もちろん初体験者でも、ビールが低濃度でウイスキーが高濃度だというくらいの知識はもっているものの、肝心の体験がないのです。

そこで、好奇心プラス体力への過信もあって、おうおうにして種類や度数を問わず「一気飲み」 というおろかな行動に走ります。
したがって、さめた目でみれば、一気飲みも愚行の一種であることにちがいはないのですが、豪快な飲みっぶりにはそれなりの魅力もあります。

たとえば、日本酒ワンカップ(1合=0.18L)をイッキに飲んだとします。度数15% として計算すると、そのなかには約27 gのアルコールが含まれていることになります。

成人でのアルコールの平均代謝量は、生理学的には体重1kgあたり22時間00.1gとされている。そこで、飲んだ当人の体重をかりに60kgとすると、1時間あたりの代謝量が6gなので、血中アルコール濃度がゼロになるまでには、4.5時間かかることになるのです。

しかし、一気飲みの場合には、短時間に大量の酒が体内に投入されます。結果として、血中アルコール濃度が急カープで上昇します。

酒を飲んだときもっとも問題となるのは、この血中アルコール濃度と体内機能の開値の閾値になります。閾値というのはその人間の許容量(アルコール代謝の限界能力) のことです。この「代謝」が飲酒時のキーワードとなるのです。

この代謝という現象についてですが、人が生命を維持していくためには、外界にある食物や酸素などとの物質交換が絶えまなく必要です。

代謝とは、そのために体内でおこなわれる物質の合成、分解、エネルギーの生産などの化学的反応過程のことをさしています。
俗に「新陳代謝」といわれるが、化学的には「物質代謝」とも言われます。かんたんにいえば、われわれの体内で常時おこなわれている「ひとつの物質が別の物質にかわる作用」のことです。

なお、食べものを摂取したあと、吸収されてから排泄されるまでの過程の化学反応のことを「中間代謝」といいます。アルコール代謝もこれにあたります。

そこで、その人間にどの程度のアルコールの代謝能力が備わっているかという基準が、アルコールの閾値だということになります。吐き気・嘔吐、運動失調をきたすのは、血中アルコール濃度が200mg/dl を超える時点です。300mg/dlを超えると昏睡に陥ります。

体液量(体内の総水分量)に換算していえば、人のからだは0.1~0.2% (平均的な日本人の場合、ビール大瓶換算で3~5本分飲んだ状態)で酩酊状態になります。

泥酔状態とは0.2~0.3% 程度(ビール大瓶換算で6〜8本)で、それ以上濃くなると肝臓での代謝能力はおろか、生命のコントロール機能そのものが維持できなくなるでしょう。

ということは、もともと体内には存在していない物質であるアルコールが「有毒物質」として身を攻めることになるわけです。

これが症状としてあらわれるのが「急性アルコール中毒」です。ひどいケースでは昏睡から死にいたる場合もあります。飲酒体験ゼロの人では、当然のことながらこの閾値が不明です。ゼロかもしれないし、先天的に一斗も辞せずという豪の者かもしれません。

ふつうは、経験をつむにしたがって自分の閾値のなかで、その日その日の上限をきめることになるのです。だから、アルコール未体験者は、代謝能力ゼロとみなしておくのが安全ということになります。

つまり、未体験者のイッキ飲みは愚行と切り捨てるよりありまえん。しかし、ここでわたしが考えたいのは、行動の愚かさのことはおくとして、あくまでこの一気飲みという若者たちの「青春の通過儀礼″」が、はたして酒の美味なる味わいを知ることができるかという点です。

しかし、酒の道には厳然として酒豪と下戸の個人差があって、これにはほとんど逃げ道がありません。ただ苦しい思い出のみの初体験から、以後は酒を断たれた人もいることでしょう。

「吐く」のは上司や世相の悪口ばかり、というところまでなり上がった酒豪の人もいるでしょう。

一気飲みと、飲兵衛がしばしばおこなう迎え酒。飲んでは吐き、吐いてはまた飲んで、こころのトキメキはそのくり返しのなかで生まれるもの、といったところが飲兵衛の道を選択されたかたがたの最大公約数的意見でしょう。

酒豪と下戸の差

ところで、飲兵衛がひとしくあこがれる「酒豪″」というのは、科学的にみればあくまで相対的な概念です。いくら飲兵衛といえども、自分の閾値(飲む量の限界域)を超えれば、やはり二日酔いの運命はまぬがれることはできません。では、この「酒豪度」なるものは存在するのでしょうか。

みずからの所有する肝臓の、その日その日のアルコールの分解能力のパワーによるところが大きいのだと考えています。

この点での世間一般の常識ではどうでしょうか。はたして酒豪の資格とはなにか。どの程度飲めれば酒豪と評されるのか。肝臓専門医たちの取りきめでは、日本酒換算で1日3合以上、少なくとも5年間飲みつづけている飲兵衛のかたがたのことを「常習飲酒家」と呼んでいます。

これが5合以上少なくとも10年以上の飲酒歴をもつ、あるいはもっと短期間であっても同等量飲んだとみなされる人たちの場合は「大酒家」となります。

現実社会には、飲める者(酒豪)と飲めない者(下戸)が存在しますが、この差は体質的な素地、手っとりばやくいえば「飲兵衛」の遺伝子の持ち主であるかどうかできまります。当然、個人差だけでなく、民族差もあります。

アルコールが体内で代謝される化学的な過程には、アルコール( エタノール)→アセトアルデヒド→ 酢酸(アセテート) 1 水と炭酸ガスというプロセスがあります。

とくに問題とされているのはアセトアルデヒド→酢酸の過程です。ちなみに、このアセトアルデヒドは二日酔いの元凶とみなされています。

アセトアルデヒドの分解には、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)という物質が不可欠です。ALDHという酵素は、現在までのところⅠ型からⅣ型までの4つのタイプが見つけられているのだですが、日本人を含めて東洋人の約半数にはⅠ型因子が先天的に欠乏しています。

分解酵素がなければ、アルコールは最終ゴールである水と炭酸ガスにまでたどりつけないのです。当然、からだの側から拒絶反応がおこされてしまいます。Ⅰ型欠乏者(飲むとすぐ真っ赤になる人)とは、すなわち「先天性下戸」です。
こればかりは遺伝子を恨むよりありませんが、日本人ではおよそ4割の人たちが該当します。

アル中の定義

ある人がこう述べています。

自分は本当に酔いたくて飲んだことはあまりない。夕食時に晩酌するのも、酒を飲まないと、料理と一緒に飯を大量に食べてしまうからである。酒に酔う必要に駆られたことは一度もない。酒に酔わなければつきあえないような人間とは、もともとつきあっていない。酒を飲んだための効果というものはまことに信用できない。

(飲んだ) 量、種類、時、飲んだ人間によってたいへん異なる。パトリックという学者などは、酒は精神上の能率を上げるなどと書いているが、われわれが通常酔った人間の上に見るのはこれと正反対のものだ。政府の調査では、疲労回復の目的で飲む者が四六パーセントだったそうだが、前夜酒を飲んだと称している人間を観察した場合、そこに見られるのはたいてい疲労の色である。

人は百人百様です。飲兵衛の方々からはいささかの反論もあろうかと思いますが、ご自身の経験をふまえてのこの観察には、当を得たところがあるとうなずかれるかたも多いと思われます。

飲兵衛と目される人にも、常習飲酒家と大酒家のちがいがあるのですが、しかし、酒嫌いの人たちからみれば、どちらであっても「アル中」にみえるかもしれません。

事実、世間一般に用いられる「アル中」とは、常習飲酒家、大酒家の別なく高度の飲酒家をさして用いられることばではあるのです。もっとも、医学的な正確さにこだわっていうと、アル中とは、いわば「一気飲み」のような「急性アルコール中毒」の略称であって、アルコールを常飲する者におこる異常や障害は「アルコール(依存)症」です。

「急性アルコール中毒」と「アルコール依存症」の病態のちがいについてはここでは省略しますが、ここではまず、世間一般に用いられている「アル中」(アルコール依存症) の問題を考えてみましょう。

嘘が通用しないアルコールテスト

アル中者は、医学的概念でとらえるより、むしろ社会的概念としてとらえるべきではないかとの意見をしばしば見うけます。
アルコールヘの依存性を量的な観点より、その人の社会的適応性の面で判断するほうがより妥当ではないかとする考えかたであって、この論議はしばしば新聞の文化欄などをにぎわしています。

その論議は、おおむね、つぎのような「社会観察」がベースとなっています。

夜な夜な鯨飲する、というより飲むことこそわが生きがい(とみえる)職業人は意外に多いのです。一見、飲酒の合間に仕事をしているような人は、けっして少なくはないのです。

ことに画家や作家など創作的な活動に従事している人たちには、アルコール愛好家が多数います。このような飲兵衛の良質な部分まで含めてアル中と呼ぶのはへンではないでしょうか。

むしろ、酒量わずかといえども、宿酔を理由に3日とあけずグータラ欠勤をきめこむ連中のほうをアル中と呼ぶべきではないでしょうか。

たしかに、もっともな話ではあります。ポイントは飲む人にとっての「依存」の程度問題だということになります。医学的見かたからすれば、行きつくところまでいった人が「アルコール依存症」だということになるのですが、この種の論議では、その核心となるはずの「依存」の本態にはあまりふれられていないようにも見うけられます。

では、日常生活のなかでどの程度まで飲んでいる人を「アル中」というのでしょうか。とりあえず、世間一般の基準というより、専門的に解析している研究機関での例を紹介します。

アルコール症についての研究と治療の場として名高い、神奈川県久里浜市の国立療養所久里浜病院でつくられた「アル中度」を測るテストに、「久里浜式アルコール・スタリーニング・テスト」という自己診断テストがあります。

一般的には「KAST」という略称で知られています。かんたんなテストです「異常」の自覚の有無は、過去6ヶ月間の行動です。

まず、対人関係の円滑度が問われます。飲むことに対する自己規制のきもちのありなしが問われます。他人からの非難の有無が問われます。酔態が問われます。飲酒翌日の記憶が問われます。
休日の飲酒パターンが問われます。仕事への影響が問われます。関連する病気の診断や治療の有無が問われます。飲んだ際の異常の有無が問われます。寝酒の有無が問われます。仕事と飲酒のかかわりが問われます。日々の酒量が問われて、警察にやっかいになったかどうかが問われます。そして、酔うと怒りっぽくなるかどうか問われます。見てわかるようにこれら14の質問は、飲兵衛が心情的に(も本能的にも)イヤがるものばかりであす。

採点は減点法でおこなわれます。マイナスに傾けば正常。プラス点が多いほどアルコールに対する依存度が高いことになります。
プラスの点が高いのはおおむね対人関係です。自宅や休日の行動、つまり自分だけの世界でへベレケになっていても、他人に迷惑をおよぼさなければアル中指数は低いことになります。この点からすると、.「KAST」では、アル中者を社会的概念としてとらえようという姿勢がつよいことがわかります。

ところで、アルコール依存症についての啓蒙書の多くには、先に紹介した「KAST 」を本人で試した場合には多くの者がウソをつくため、このテストはかならず当人ではなく、家族が記入しなければならないと書かれています(じつに痛いところをつくものである)。

はたして、ほんとうにウソをついているのでしょうか。・たとえば「KAST の質問項目にもあるように、われわれの生活には「商売や仕事上の必要で飲む」ことが少なくありません。このような場で飲むとき、相手に対するおもんぱかりもあって、まったくの下戸でないかぎり、たいていは自分も多少はいける顔をするのが一般的です。

また、この程度ならまだ酔わないはずだと思いながら杯を重ねていくのが、仕事上の必要で飲むときの常です。場が移るにしたがって、いつしか緊張のタガもゆるんでくるのが自然です。

すなわちアルコールの麻酔作用がすすむということです。それだけにとどまらず、やがては悪酔い、宿酔の憂きめをみる人たちが少なくないのです。

ならば、もうつきあい酒は絶対やめますか、と問われて、ハイとこたえられるものでは決してありません。とくにつきあい酒は相手あっての飲酒の場です。
当然お互いが相手の限界までつきあおうということになります。さまざまなしがらみから、わかってはいてもやめられないというのがつきあい酒のつらいところでもあります。

このような場が、酒豪をつくりだす一方で、自覚されざるアル中をつくりだすひとつの基盤ともなります。

アル中者を社会的概念としてとらえる見かたに関連してもうひとつ、国民のアルコール問題に対する厚生省の考えかたも紹介しておきましょう。

厚生省の考えでは、まず飲酒を労働災害や生産性低下などの産業の問題、交通事故や犯罪、家庭の崩壊などの社会問題としてとらえます。

ついで、未成年者の飲酒、妊婦の飲酒、キッチンドリンカー、高齢者の飲酒などの社会問題です。国家的見地からすれば、飲兵衛の問題とは、第一に産業的、社会的な問題となるわけです。そこで、「アルコール関連問題」対策の項をみても、これらの問題解消が先に立つのは言うまでもありません。

たとえば、「一般国民に対しては、健康で豊かな生活を送れるよう、アルコール飲料に関する正しい知識と適正飲酒の教育をおこなう」ことが必要であり、「大量飲酒者に対しては、アルコール関連障害の発生を予防するために、健康に有害とならない適正飲酒の実行を指導する」こと、また「アルコール依存症者や回復途上者に対しては、必要な治療を供給するとともに断酒継続のために「断酒会」等の自助グループの育成をおこなう」ことになります。

もっと強くいうと、「一次予防の観点から適正飲酒の普及と、これにくわえて、二次予防の観点から、問題飲酒者の早期発見と初期介入にも重点がおかれてきている」のです。

なお、同書の分類によれば、飲酒者とは「一般国民」「大量飲酒者」「アルコール依存症者及びその家族」および「回復途上者等」という別に分けられています。「大量飲酒者」群とは、1日のアルコール量150ml(日本酒換算で5合半、ビール6本、ウィスキーダブル6杯)以上とる人のことだとされています。

一般的にはこのあたりがアル中の量的な基準といったところになると思います。ちなみに、統計的に示されている大量飲酒者は、平成元年時点で210万人ほど存在します。また、入院治療を受けたアルコール症の患者は推定でおよそ2万人程度です。
差し引き200万人は肉体的、精神的なアルコール依存の自覚ももたずに、日々飲酒をつづける人たちだということになります。
前の「KAST」の基準と重ねあわせれば、「大量飲酒者」であっても、問題飲酒者でなければ、まあアル中とみなすことはよそう、ということになります。
しかし、「KAST 」で確実に高点をとることが予測されるかたがた、つまり異常行動の自覚の高い人はおくとしても、一般にやや速断にすぎるといわれるかもしれませんが、れたしだけでなく、 多くの飲兵衛を自負されるかたがたには、自分がふだんの飲酒時に異常行動をとっているという自覚はあまりないのが一般的です。

アル中の前提条件

「依存」にはつねに2つの面があります。身体的な側面と精神的な側面です。身体的な依存とは、アルコールに限定すれば、理由のあるなしにかかわらず、とにかく毎日飲みつづける人たちのようなケースです。

それも大量に飲酒しなければ、からだが納得しないという状態になっている場合です。むしろ、飲んだときのほうが本人の活動力が高まると本人は思っています。

したがって、仕事中に飲むこともあり、飲みながら仕事をする人もでてくることになります。精神的な依存とは、飲む、飲まないにかかわらず、飲みたいというきもちだけは四六時中つつくような状態です。そこには明確な意識のはたらきがある。精神的な「禁断症状」といってもよいでしょう。

どちらの場合も酒を飲むことによって、その症状は一時的にはおさまる。したがって、一見、どちらもおなじではないかというようにもみえてしまいます。もちろん、盾のうらおもてのような関係にあることは事実なのですが、アル中を「社会的概念」としてとらえようという立場からは、精神的な依存からとらえようとします。

それは、酒への精神的な依存度の高い人のほうが、社会生活をいとなむうえでより困難をきたしやすいとみなされているためです。とすると、酒を飲むまえの分析をおこなわずに、飲んだあとの行動の逸脱のみをうんぬんすることには、どうしても無理が生じるような気がするのです。

であれば、アル中(アルコール依存症患者)とはなにかということを考える場合にも、まず酒を飲む分析からはじめることのほうが妥当なのではと考えます。

いうまでもなく、飲んで酔う人のすべてが依存症(アル中) におちいるというわけではありません。大量に飲んだ人の50%は、翌朝に疲労の色がのこります。二日酔いにもなります。

だから、飲酒行為を短期的にとらえた場合には、依存におちいる前に、たいていの人はからだがダウンして、そこまでいかないのです。

洒を愛する多くのかたがたが、いかにすれば自分のからだを壊さずに、しかも社会的摩擦をおこさずにすむかを、ともに考えていきたいというのが基本姿勢です。

ここで、まずわたしが考えたいことは世間一般にいわれるような「アル中」の前提条件とは、具体的にいうとどんなことなのかということです。

つまり、人によっては、わずかな酒量であっても二日酔いをおこしたり、世のひんしゅくを買ってしまうような行動をするのはなぜか、という点です。さらに、もっとつきつめれば、人は量的にどこまで飲むことが可能なのか。そして、どの程度飲めば「異常」な行動をするようになるのでしょうか。

また、その原点はなにかということでもあるのです。アルコールは肝臓で代謝されたのち最終的には水と炭酸ガスになります。アルコールはただのろか水とはちがって血管内に入る速度もはやく、腎臓で濾過されて尿にかわる速度も早いのです。

肝臓、腎臓いずれも身の内の器官であって、それぞれの臓器にはおのずと能力の限界があります。その上限をこえ肝臓での代謝能力をオーバーすれば、体内には分解されないままのアルコールがあふれだすのは当然です。

これが血中のアルコール濃度の上昇である。この理屈を無視して飲みつっければ、一気飲みの例でみたように、最終的には泥酔→昏睡というコースをたどります。
したがって、ふだんからその人に許容された開値を超えてまで飲みつづける癖をもつ人たちは、やはり「アル中」というほかはなくなります。

快楽に導くモルヒネとは

そこで、ふたたび問題は、人が酒を飲んで酔うのはなぜかという原点にかえることになります。酒を飲んだときに、人の体内で生じるこの「酔う」という幻妙な変化は、どんな化学的法則によってもたらされているのでしょうか。酔うと精神が高揚する。この現象です。

かつて薬理学者の間で、この酔いの根源をめぐつて、これをアルコールによる興奮作用としてとらえるべきか、はたまた神経の麻酔作用としてとらえるべきか、との論争があったそうです。

飲むと酔う。大量に飲んだときには神経がマヒしてしまう。このため、たとえば少々の打撲を受けてもその当初は痛みを感じないのです。

であれば、アルコールの神経に対する作用は麻酔作用だということになります。しかし、少量の場合はどうでしょうか?ほとんんどの飲兵衛がそうであるように愉快になります。そしてはしやぎ騒ぎます。これは明らかに麻酔というより興奮作用としてとらえられるものです。

ですが、結果的には、この論争は「麻酔の作用である」ということになりました。麻酔剤は大量に使えば名のとおり麻酔剤ですが、少量ではかるい興奮をもたらすためです。この興奮→麻酔は、いずれもアルコールの大脳皮質への刺激作用です。そこで、大脳皮質のはたらきを考えると、ここは人の意識や行動のすぺてをコントロールしているところです。

もう少し詳細に言うと、からだに対する刺激は、じかに大脳皮質に伝えられるのではなくて、その下部にある「網様体」というところを中継しておこなわれているのです。

網様体とは、脳幹(中脳)から脊髄にかけて網目状に存在する感覚の調節中枢です。アルコールの摂取は、この網様体の機能を低下させるのです。

この機能が低下すれば、大脳皮質に伝えられるはずの各種の刺激は、当然のことながらうまく伝わらなくなります。というより、網様体本来の役目である調節作用のタガがゆるくなるため、大脳皮質はかるいマヒ状態となります。

ひとくちに大脳皮質といっても、さまざまな皮質があります。日常の記憶や行動の判断をおこなっているのはもっばら「新皮質」と呼ばれる部分です。

飲んだときには、ここにマヒがかかる。すると、それまで新皮質によっておさえられていた大脳辺緑系の抑制がとれます。大脳辺緑系の部分は、本能をつかさどる部分です。

人が社会生活をいとなむ際には解放された状態では不都合なことが多いため、ふだんは抑制されているのです。アルコールの摂取は、一過性にこの大脳辺緑系の抑制を開放してしまいます。そこで、見た目には精神が解放されたような現象がおこることになるのです。

余談ですが、痴呆症でも類似した現象がおこります。痴呆症の場合は、新皮質の神経細胞が破壊されるために一種の先祖がえりに似た異常行動をとるのですが、ただし、これは一過性ではありません。

いずれにせよ、アルコールの摂取による初期の段階でみられる「1杯機嫌」の状態とは、網様体の機能低下によって大脳新皮質のはたらきがマヒし、大脳辺縁系の動物的部分が顔をだす状態なのです。

アルコールの麻酔作用がもっとすすむと、やがては大脳辺縁系のうちの旧皮質だけでなく古皮質といわれる部位にまでおよびます。
すると、感情の抑制解除だけでなく、それが行動面にもあらわれることになります。これがすなわち泣き上戸、怒り上戸の出現となるのです。
酔いがもっとすすむと、アルコールの麻酔作用は大脳皮質のうち、運動野(領域) をコントロールしている部分や小脳にまでおよぶことになります。つまり、運動神経にまで麻酔がかかった状態となって、千鳥足が出現することになるわけであす。

かんたんにいえば、アルコールをとったときには、その麻酔作用がアタマにくるというのが酔いの本態です。最近の説で感情面の変化についてもう少し補強しておけば、酔った際には、脳内に「エンドルフィン」という一種のアミノ酸が分泌されていることも確認されています。このエンドルフィンは別名「内なるモルヒネ」ともいわれるほど、強力な鎮痛作用とともに多幸感をもたらすモルヒネそっくりの作用をもつ「快楽物質」です。そこで、エンドルフィンの分泌によっても、こころがハイになる。エンドルフィンの分泌がたかまったところでストップできれば、まず問題は生じないのです。

しかし、飲んだときの多幸感を追い求めるあまり、際限なく飲みつづければ、やがてはアルコール依存の事はじめとなります。したがって、平均的な飲兵衛ではほろ酔い気分まででとどめるのが上策ということになります。

ホームレス=アル中

では、結論的に「アル中」とはなんでしょうか。くり返しますが、医学用語上での「急性アルコール中毒」のことではなく、ここではあくまでも一般に使われる「習慣性通年性アルコール多飲症」あるいは「喜びも悲しみも酒々依存症候群」の患者としての話です。

人はシラフでも百人百様です。当然、飲兵衛にも百態の個性があります。まずあらわれるのは、ご存じのとおりストレスや緊張がほどけたあとの意識下の感情です。

感情がたかぶれば自分の年を忘れ、使いなれぬ腕力をふるってホゾをかんだりする場合もあるでしょう。このようなジキル博士変じてハイド氏になる現象は、たいていの飲兵衛が一度や二度は経験ずみでしょう。

話はいささか飛躍しますが、飲酒が身をほろぼしているかにみえる一群の人たちがいます。昼間夜間にかかわらず駅構内や公園で酔ってタグをまいているホームレスです。この人たちの酔態に、アル中者像のひとつのイメージをもつかたがたもいるでしょう。

そこで、この人たちと、まだ家族やその他との社会的つながりをもっている大量飲酒家(KAST高点者)の体内生理を比較してみましょう。
じつは、ここにはふだんの食生活からくる大きなちがいがみられます。かりに、酔ってクダをまいているホームレスたちが、さしたる食べものもとらず、つねに低栄養状態にあるとすれば、外見にはいくつかの特徴が生じるでしょう。

栄養物の摂取量が減少すると、体内で真っ先に消費されるのは蓄積されている脂肪分です。備蓄が底をつけば、もともと体内に備蓄分のない蛋白まで消費されることになります。このため、皮下脂肪や筋肉の蛋白がうしなわれ、骨格がうきでて、眼のまわりも落ちくぼんでしまいます。

皮膚は薄くなり、乾燥してつやがうしなわれます。筋肉はやせほそり、外見上は全体的に弛緩した印象になります。医学的にはこれを「るいそう」(皮下脂肪の顕著な減少)と表現します。

見た目にはただの透明な液体とはいえ、アルコールは1gで7kcal の熱量をもち、脂肪に次ぐ高熱量食品です。したがって、そこそこに飲酒していれば、生命を維持するうえで必要な最低カロリーだけはなんとか摂取できるのです。

しかし、このような状態がつづくと、生理学的には「細胞外液」と呼ばれる体内水分が増加してきます。いわば「水ぶくれ」の状態です。そして、全身にむくみ(浮腫)がでます。

つまり、栄養不足でやせているにもかかわらずスマートというにはほど遠く、身体全体が膨らんでいる印象になるのです。体内では、ほかに血圧や体温の低下、貧血などの症状があらわれることもありますが、これは外見からははっきりしません。
やや乱暴ないいかたになりますが、生理的には飢餓状態のようなものなのです。この状態におかれた人たちは、過度の栄養障害の影響で神経系が過敏になっています。

たとえば手足やくびなどがピタピタとけいれんします。人格に変化がおこり、注意が散漫となり、精神が不穏となります。ささいなことで口論をふっかけたり、ヒステリー症状をおこしたりします。

これらの行動は一見アル中のような行動を示すものの、経済状態から考えてもそれほど大量に飲んでいるとは思えません。つまり、ホームレスたちはアル中と呼ばれるほどには飲んでいないことになるのです。

ホームレスたちとちがって、「アル中行動」を示す大酒飲みの場合には、家族や社会とのきずながそこなわれていないかぎり、まがりなりにも1日に2~3食はとっていると考えられます。
つまり、からだが必要とする最低限度の栄養素と量はとれているとみなすほうが自然です。

もっとも、飲むばかりできちんと食事をとらない飲兵衛や、ホームレスたちに似かよったライフスタイルの人であれば、つまり飲酒が仕事外時間だけにとどまらず、四六時中アルコールを主エネルギー源とし、副食物としてはもっばら鳥の餌ようのものだけをつついていれば話は別ですが。しかし、ホームレスの行動には、イメージするアル中とダブる部分がなくもないのです。

たとえば、注意が散漫、精神が不穏などの人格の変化、すなわち神経系が過敏となる現象です。酒肴にはもっばら鳥の餌ようのものだけを食べる癖をもち、日々の必要栄養素のインプット量がアウトプット量を下まわることをうかがわせるかたがたも同様です。

これらの異常が行動にあらわれる典型が、すなわち「酒乱」です。一般にアル中と呼ばれるのはこのような人たちでもあるのです。

ストレスが酒乱をつくる

酒乱とは、飲んだときにとる言動が社会的な許容限度をはみだす人たちのことです。意識の乱れとともに行動の乱れがあります。
乱れの大本は、前に述べたように大量のアルコール摂取によって網様体の機能が低下し、大脳皮質がコントロールをうしなうことです。

では、なぜ社会的な許容度をこえてまで乱れるのでしょうか。シラフであっても、われわれの日常生活や精神病理の世界のなかには、酒乱を生みだす要因がひそんでいるのでしょうか。

その要因のひとつは、ほかならぬわれわれ自身が酒杯を手にする理由づけに多い「ストレス」のカラクリになります。ストレスとは、不安、緊張、うっぶん、不和、煩悶、その他もろもろ、この地上すべての事物が発生源となって襲いかかる心理的負担のことです。その原因はメンタルなものだけでなく、暑さ寒さ、騒音、けが、アレルギー、絶食、筋肉労働、感染、ビタミン不足などさまざまにあります。

医学的定義にしたがえば、ストレスとは「もろもろの外圧に抗してからだが懸命に支えようとするけなげな防御反応」のことです。外から刺激があたえられたとき、からだの恒常性( ホメオスターシスという) は一次的に乱されます。乱されたところはねじ曲がります。

当然、からだの側では乱れを修復しょうと機能します。この一連のはたらきがストレスです。いうなれば、ストレスとはからだを介しての外部と内部の摩擦過程そのもののことなのです。

ストレスには3つの段階があります。第一期を「警告反応期」。医学的には下垂体=副腎皮質系が活動を始める初期段階のことをさすのですが、これはさらに「ショック相」と「反ショック相」の2つに分かれます。

ショック相というのは、からだがショックを感じて反撃を開始する時期のことです。最初は体温の低下や低血圧などにくわえて、たとえば無力感、無気力におちいるなどの精神活動の低下や、グッタリしたり、けだるさを感じるような筋肉の緊張の減退などがおこります。

ショック相はやがて反ショック相に移行します。からだはショックから立ちなおり、ショック相とは逆の変化が生じます。体温や血圧が高くなり、神経や筋肉の活動も活発となります。いうなれば、からだの側が「反転攻撃」に移る段階です。

いやなものにたいしてはだれだって攻撃的になる理屈です。このからだが反転攻撃に移った段階が「抵抗期」と呼ばれる第二期となります。

ストレスが長期化するにしたがい反転攻撃が継続します。ならばストレスに打ちかってやろうと、からだがけなげにも抵抗する時期といってもよいでしょう。

第三期は「疲はい期」。文字どおり疲労困憊の状態です。からだの側がストレスとの葛藤に疲れてついにギブアップする段階で、この段階を放置しておくと病気になってしまいます。

しかし、第二期にみるように、人の体内には「外圧」に対抗する機構がそなわっている。要はつねに外からの圧力を体内の反発力が上まわっていればよいわけで、そんなストレスにうちかつ生体の抵抗力のことを、ハンス・セリエという学者が「交差性抵抗」と名づけました。

交差性抵抗とは、自分で訓練してストレスにたちむかう、かつての日本人が好きだった〝「○○道」に類する精神修業、たとえば昔からおこなわれてきた僧職者や山伏その他の荒業、あるいはヨガなどを含めた心身鍛練法、自律訓練法などです。

もちろんそのうちには、アルコールの力を借りてのうっぶん発散法もはいります。しかし、かんじんなのは、この交差性抵抗は「あるストレス要因にたいする抵抗力は増しても、ほかのストレス要因にたいする抵抗力をうしなう」というあい反する現象もあわせもちます。。

この交差性抵抗現象を、飲兵衛のこころとからだにおきかえれば、飲むことによって一面ではたしかにストレス発散(第二期)をしているものの、量的なエスカレーションにともなって、同時に第三期(疲はい期) にまで突入している状態とは言えないでしょうか?

こころの病んだあらわれが、すなわち酒に飲まれての「乱れ」現象をもたらす元凶ともなっているような気がするのです。

いいかえれば、酒乱にいたる人たちが日々大量に飲酒する心情のうらには、もろもろのストレスにかちたいと切にねがうこころの「反乱」があるように思えます。

飲んだときの脳はこのような状態です。